岩国のへぇ~ 21~30の巻


21の巻…あの妖艶な大女優山田五十鈴の最初の夫は玖珂町出身の月田一郎だった!

  12歳より主演女優であり続け、女優としてはじめて文化勲章を受章した山田五十鈴は、昭和10年18歳で初恋の人、月田一郎と結婚をしました。

 月田は、玖珂町本町出身の超二枚目俳優。二人は、第一映画の「建設の人々」で共演をし、お互いに寂しい幼少時代を過ごしたことから同情し合い、やがて熱烈な恋に落ちました。二人の間には翌年、女の子(後の女優、嵯峨三智子)が誕生しています。

 当時、人々の楽しみは、芝居や浪曲から映画へと移り、月田も数多くの映画に出演しています。その後、収入の差や、家庭に入ることを望んだ月田に対し山田は女優を選び、二人は離婚しました。

 月田は35歳の若さで病没しましたが、五十鈴はその後、5度の結婚離婚を繰り返しました。帝国ホテルに20年以上住み、85歳で病没しました。

ささえ No.34 2007年11月号

22の巻…岩国の郷土料理「茶粥」は、健康食!

  「茶粥」は、奈良が有名ですが、それとは一味違うのが、岩国の茶粥です。茶粥は、17世紀初頭、藩主吉川公が岩国に移封された時に、米の節約のため奨励したのが始まりといわれ、柳井や周防大島にも広まりました。奈良では、番茶を良く使いますが、岩国ではほうじ茶やハブ茶(豆茶)を使います。柳井や近隣の周東地域ではサツマイモを入れることもあります。昔は鑵子(かんす)という鉄の釜を使っていました。お茶の効用や、消化のよさから「健康食」といわれ、二日酔いにもよいといいます。

 作り方は、各家庭で違い、お茶を入れる茶袋の縫い方まで家々のこだわりがあるそうです。茶粥で使う「ハブ茶」は、中国では欠明子(ケツメイシ)といい、疲労回復、眼精疲労、高血圧、便秘に効く漢方薬でもあります。

ささえ No.35 2008年1月号

23の巻…シンプルライフを愛した末川博士

 玖珂町瀬田の農家に生まれた末川博(明治25年~昭和52年)は、民法学の権威で、六法全書編者として有名です。

 平和を愛し、自由を愛した末川でしたが、権力には常に勇ましく立ち向かいました。京都大学卒業後、同学教授なりますが、大学が国と対立した時、学問の自由を守るために辞任し、大阪商科大学の教授を経て立命館大学の総長となりました。総長時代の昭和21 年には、いち早く市民への大学開放などの改革をすすめました。

 シンプルライフの実践者で、簡単で質素な生活をすることが幸せであり、生活内容を豊かにするとの信条で、総長時代もうどん屋に立ち寄り、市電で通う生活でした。

ささえ No.36 2008年3月号

24の巻…岩国でピラミッドパワーとアートに浸る

 錦町羅漢高原にある「らかん高原交流センター」多目的ホールには、2つの不思議パワーがあります。一つは、完全なピラミッドの形をしている屋根。方角もエジプトのピラミッドと同じというこだわりよう。昔から言い伝えられている不思議なピラミッドパワーが、ホール全体に満ちているといいます。

 二つ目は、ホールの天井に描かれた「赤の螺旋」。かの有名な日本を代表するアーティスト、横尾忠則の作品です。

 外側の黄色が内側に行くほど赤になり、そして渦巻きがやがて黒色へ。色々な星座が描かれ、見ていると吸い込まれそうになります。中心に渦巻く星雲は、錦川と宇佐川を表わしています。渦巻きには錦鯉の群れが描かれ、生命力、吉兆の象徴になっています。氏が手がけた初めての天井画ということで、大変貴重な作品です。

 是非一度、不思議なパワーにどっぷり浸かってみましょう!

ささえ No.37 2008年5月号

25の巻…「5月5日はベースに・・・」正式な呼び名は?

 毎年、米海兵隊岩国基地航空祭「日米親善デー(フレンドシップデー)が5月5日に開催され、入場者20万人で賑わいました。

 このイベントは、今年で35年になります。35年前は、Armed Forces Day(三軍記念日)と呼ばれ、5月中旬に開催されていました。その後、Open House Day(航空記念日)と呼ばれ、1973年からある日本人男性の提案により、日本の皆さんに基地を紹介したいとのことで、こどもの日の祭日を選んで、フレンドシップデー(日米親善デー)と呼ばれるようになりました。良い隣人になるように心がけ、日米親善の意味を込めて名称をつけたそうです。

 最近は、日米の文化交流も行っているようです。

ささえ No.38 2008年7月号

26の巻…「箸でハエをはさんだ」のは、岩国出身の剣客 宇野金太郎!

 

 吉川英治著「宮本武蔵」の小説には「箸で生きたハエをはさむ」という有名なエピソードがあります。これは、幕末に活躍した岩国出身の剣客、宇野金太郎の伝説だったのです! 吉川英治は、彼について熱心に取材し、このエピソードを「宮本武蔵」に登場させたといいます。

 宇野金太郎は、吉川家家臣を父に持ち、剣術を好んで岩国の片山一門に入っていましたが、幕末の三剣士の一人、島田虎之助に込まれ東上し浅草の道場で修業しました。その後、千葉周作道場でも腕を磨きました。全国を武者修行に回り、ますますその名声が広まりました。

 「岩国に錦帯橋と宇野あり」といわれるほどの腕前で、桂小五郎とも立合い、圧勝しました。丈はあまり高くありませんでしたが、色白の美男子だったそうです。文久2年8月、突然病に冒され、39歳でこの世を去りました。墓は、錦見の普済寺にあります。

ささえ No.39 2008年9月号

27の巻…徴古館に、山縣有朋直筆の手紙がある!

 萩市出身の山縣有朋(1838年~1922年)は、足軽以下の身分でありながら、第3代、第9代の内閣総理大臣になった人物として有名です。その有朋直筆の手紙が徴古館にあります。

 手紙を送られたのは、岩国出身の陸軍中将で後に男爵になった沖原光孚(おきはらこうふ)(1848年~1931年)。手紙には、光孚が有朋の還暦を祝って建てた銅像のお礼に、記念の品を送ったということが書いてありました。日付は明治33年(1990年)8月。有朋は62歳、第2次山縣内閣で敏腕を振るっていた頃。

 光孚は52歳で、陸軍の姫路第八旅団長。二人とも脂が乗った歳。明治の改革の時代を、雄雄しく走り抜けていく二人の姿が見えるようです。

 話にはまだ続きがあります。実は、この手紙、水害時に捨てられ、灰になるところを偶然発見され、徴古館に寄贈されたといういわくつきのものです。一見の価値があります!

ささえ No.40 2008年11月号

28の巻…岩国図書館の建物はかつてレトロな赤レンガ造りだった

 明治43年8月、岩国小学校附設の建物、三層楼(現岩国学校教育資料館)が、初めて、岩国図書館として開館しました。その後、大正12年10月から昭和46年6月までは、今の岩国図書館がある場所に、吉川家から寄贈を受けた木造モルタルの岩国図書館本館と赤レンガ造りの南陽文庫がありました。

 その頃の町民誌「興風時報」には、吉川元光公が「一般の希望し居たる図書館を岩国町に寄付する」といった事が掲載され、どんなにお金がかかっても人材作りと教育の振興を、と願った藩主の思いが込められた図書館だったことが分かります。

 第二次大戦が始まり、吉川報效会へ移管され私立岩国図書館となりました。終戦後、駐留軍に接収されましたが、復帰運動の末、昭和24年に接収解除となりました。昭和47年、レンガ造りの書庫が壊され、昭和48年4月中央公民館と岩国図書館が併設された現代の建物となりました。(参考資料:「岩国図書館八十年史」)

ささえ No.41 2009年1月号

29の巻…「三つの名石」が「岩国」の名前が由来になった!

 岩国には三つの名石があります。城山にある「白石(しらいし)」、岩国山の「亀石(かめいし)」、尾津の「紅石(べにいし)」です。別の説では、「紅石」の代わりに、立石町にある「竪石(たていし)」を入れるというものもあります。『玖珂郡誌』(享和2年:1802年)には「三つの名石」が「岩国」の名前の由来と書かれています。

 岩国城築上(1603年)の際に、家臣が「白石」のそばに観音堂を建立しました。「白石観音」の名前の由来もここからきているそうです。

 「亀石」には、橋を作るために亀石にくさびを立てたところ血が流れたとか、この石を掘り出してひどいたたりがあったので、すぐ埋め戻した等、不思議な話があり、麓には「岩屋観音」が建てられています。

 「竪石」は、怪蛇が海から上がってこの石の中に入って神霊になったと伝えられ、「竪石大明神」が祭られています。

 みなさんも、市内を散策しながら名石を探してみてはいかが?

ささえ No.42 2009年3月号

30の巻…岩国のれんこんは村本三五郎が始まりだった!

 岩国れんこんは、19世紀初め(享和年間)岩国市愛宕地区の村本三五郎が、当時の藩主吉川侯の命を受け、備中種を持ち帰り、市内の門前地区に植えたのが始まりとされています。

 現在は、主に「白花種(中国種)」という明治9年に日本伝えられた品種を栽培しています。

 日本では、れんこんは“ 穴が多くあいている” ことから「見通しが良い」とされ、縁起物としてお祝い事に多く用いられています。

 岩国れんこんの収穫量は、全国第4位で、岩国寿司には欠かせない食材です。

 村本三五郎は、当時の農民の苦しい暮らしに心を痛め、最初は東に行って綿作りを学び、次に西へ行って蓮作りを研究して現在の尾津の蓮田を拡げた努力の人でした。

ささえ  No.43 2009年5月号