岩国のへぇ~ 41~50の巻


41の巻…まぼろしの岩日線~錦町駅⇔日原駅~

 錦町の観光スポットに、『岩日北線記念公園』内遊覧車、愛称‘とことこトレイン’があります。この‘とことこトレイン’というのは、ガタくん・ゴトくんの2編成のタイヤ付遊覧車で、錦町駅⇔ 雙津峡(そうづきょう)温泉駅までの約6kmを40分かけて運行しています。

 当初は、山口きらら博で使用された遊覧車で運行していましたが、2009年以降は、2005年に行われた愛知万博の会場内を運行した電気自動車「グローバルトラム」を使用しています。

 錦町駅すぐ北の広瀬トンネルは、「きらら夢トンネル」と名付けられており、内部に6色の蛍光石とブラックライトを使用したイルミネーションが、約600mにわたって施され、とても綺麗です。

 こうして、錦町の観光に一役かっている‘とことこトレイン’ですが、実はこの路線は山陽本線の岩国駅と山口線の日原駅(島根県)までを結ぶ、陰陽連絡鉄道の1つ旧国鉄岩日線として建設されたものであり、岩日線の名称も「岩国」と「日原」の頭文字をとったものです。1963年には、錦町駅まで開業しましたが、国鉄再建法施行により特定地方交通線の第二次廃止対象路線に指定されてしまい、路盤やトンネルや橋梁などほとんど完成しながら工事は中止され、陰陽連絡の夢は消えてしまったのです。

 その後、2002年から、この路盤の一部を活用して鉄道事業ではなく、園路内を走行する遊具として‘とことこトレイン’の運行が始まりました。

ささえ No.54 2011年3月号

42の巻…かつて東地区(駅東口)は大変賑わっていた!

 東地区は、戦前より「人絹町」の名称で親しまれた地域です。昭和20年、終戦直前に岩国駅周辺大空襲で戦災を受けました、復興に向け地域一丸となって努力を重ねました。やっと普段の生活を取り戻したところへ、台風29号による高潮で大きな損害を被りました。住民はまたも奮起し、経済復興を成し遂げ、現在があります。

 東地区は、昭和30年代後半までは非常に栄えており、商店が軒を並べ、映画館(さくら会館)もありました。

 メインの国際通りは人があふれていたそうです。中央にはえびす神社があり、お祭りも盛んでした。ちなみに、「人絹町」の名前の由来は、人造の絹糸を製造する「帝国人造絹糸株式会社岩国工場」が立地していたからです。また、駅の西口に通じる地下道は、空襲から身を守る防空壕でもありました。現在の東地区は、ミニ駅伝や恵比寿講があり、ユニークな公園もたくさんあります。

ささえ No.55 2011年5月号

43の巻…岩国出身のスゴイ漫才コンビがいた!!

 昭和に活躍した、「東洋日出丸・朝日丸」という歌謡浪曲の兄弟漫才のコンビを知っていますか? ギターとバンジョーウクレレ持って、やせの弟の朝日丸が浪曲を唸っていると、太めの兄の日出丸がボケを入れて会場を沸かせていました。

 この二人は、岩国出身で大阪育ち。本名は三浦秀雄(1930-1989)・良夫(1933-1986)といいます。兄の秀雄は、天才少年浪曲師と讃えられ、10歳で日出丸を襲名し、一座を組んで中国地方を回っていました。

 1963年に兄弟でコンビを結成しました。

 漫才ブームの頃、同じような芸風の「玉川カルテット」が人気で、東京進出を狙ったのですがうまくいかなかったそうです。しかし、「大阪に凄い売れてないけど、凄い芸人がいる」とビートたけしが言うほど、業界の中では一目おかれるコンビでした。

ささえ No.56 2011年7月号

44の巻…朝日長者が建てた、中津薬師堂

 今から5、6百年前、中津に大金持ちが住んでいた。昇る朝日のように勢いがよく、人々は「朝日長者」と呼んでいた。長者には、つばきという名前のそれはかわいい女の子がいた。大事に大事に育てていたが、ある年重い病気にかかり、看病の甲斐なく亡くなってしまった。

 長者は嘆き悲しみ、生きる希望もなくしていたが、「せめて、つばきがあの世で幸せに暮らせるように」と願って、大きなお堂を建て、京都からりっぱな薬師如来像をとりよせ、その中におまつりした。そして、娘の供養のためにと、お堂の下を深く掘り、黄金1,000 枚とウルシ1,000杯埋めたという。それが、楠木町にある「中津薬師堂」である。

 今、朝日長者の屋敷があった辺りに道路ができるということで、調査が始まっている。朝日長者にまつわる遺跡や遺物がどんな形で出て来るか楽しみだ。

(参考文献: 山口県小学校教育研究会 国語部編「山口の伝説」)

ささえ No.57 2011年9月号

45の巻…お姫ィ様が書いた『笛吹き天女』

 20年以上前に放送されたテレビドラマ「花くらべ」は、岩田幸子(ゆきこ)の『笛吹き天女』が原作で、老作家と年の離れた未亡人の儚くも温かい物語。これは、著者である幸子の半生を描いたドラマで、老作家の獅子文六を森重久弥、未亡人岩田幸子を多岐川裕美が演じた。

 幸子の実家は、岩国の城主で、祖父は吉川家最後の殿様吉川経幹(つねまさ)、幸子の父重吉は経幹の二男。重吉は11歳で上京。岩倉具視一行との欧米諸国巡遊の経験もある。

 大名家で裕福に育った重吉だったが、子育てには「本質や遺伝性の欠如は品性の養成をもって克服すべし」と厳しかった。

 しかし、ばあやに育てられた幸子は、天真爛漫な童女がそのまま成長したような、まさに明治時代上流階級のおてんばお姫ィ様となった。戦前、幸子は財閥に嫁いだが、わずか3年で夫と死別。

 戦時中は岩国へ一時疎開。戦後に帰京し、18歳年上の獅子文六と出会い再婚。一子を儲け、おもしろくほのぼのとした生活を送り『笛吹き天女』を執筆した。

ささえ No.58 2011年11月号

46の巻…悲話 伊勢が岡の戦(いくさ)ごっこ(郡児招魂社(ぐんじしょうこんしゃ))

 1866年(慶応2年)11月18日に、伊勢が岡(岩国山)の頂上付近の陣営で、藩校素読(そどく)寮の子供たちが戦ごっこをしていた。ある日、「火攻め遊び」をしようということになり、8歳から14歳の30数人の仲間は、実戦さながらにわら束を用意した。8歳の山県( やまがた)幸輔は一番小さかったので仲間に入れてもらえず、他の子供たちの刀の番をさせられた。

 わらに火をつけて、戦ごっこが始まった。そこに急に風が吹いて火が四方八方に燃え移ってしまった。大人たちが気づいた時には、火の勢いは強くてどうすることもできなかった。火が消えた後、16人の子供たちの痛々しい遺体が見つかった。なかでも、小さな幸輔は、みんなの刀を守って、その上に覆いかぶさるようにして亡くなっていたのだ。生き残った年長の4人は自害して罪を償おうとしたが、大人たちが思いとどまらせた。

 1915年(大正4年)、素読寮の同窓生が、亡くなった友人たちの魂を慰めるために「群児招魂社」を建てた。今でも、錦帯橋近くの「池が迫」バス停そばにひっそり建っている。

ささえ No.59 2012年1月号

47の巻…剣豪スター大犮柳太郎は、柱島育ち!

 数多くの時代劇映画で主役を務めた、大犮柳太郎(本名:中富正三)は、1912年(大正元年)6月5日に母の実家のある広島市で生まれ、父の出身地である岩国市柱島で育ちました。小学3年から5年までは周防大島で暮らし、愛媛県松山市の松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)を卒業後、大阪の新国劇に入りました。

 1937年(昭和12年)に主役を演じた映画「佐賀怪猫伝」が大ヒットし、スター俳優になりました。しかし、太平洋戦争終了後の1946年(昭和21年)にはGHQが「剣戟けんげき映画禁止令」を発布し、活躍の場がなくなってしまいました。

 3年後にやっと禁止令が解除になり、剣戟映画に復帰、主演した「怪傑黒頭巾」(1953年)が大ヒット、一躍子どもたちの憧れの的となりました。

 1960年代半ばからは、「桃太郎侍」、「なっちゃんの写真館」、「北の国から」、「おしん」など、たくさんのテレビドラマにも出演しました。1985年(昭和60年)9月27日、73歳で亡くなりましたが、台詞覚えが悪くなったことを悩んだ末の自死でした。遺作は伊丹十三監督の「タンポポ」です。

ささえ No.60 2012年3月号

48の巻…上田秋成の『山霧の記』は、岩国が舞台?!

 『雨月物語』の作者で有名な上田秋成は、眼病治療の為、寛成10年(1798年)65歳の時に河内の日下に逗留しました。その間正法寺住職から聞いた話を題材に『山霧の記』を執筆しました。

 「周防の岩国どのの御垣の内に、とう仙寺と申すは、菩提寺にて、世の塵にまじはらぬ御寺なりけり、石霜大和尚と申せしを迎えて仰ぎかしづき給えりき。」

 本文中のとう仙寺というのは、岩国市横山にある洞泉寺であり、石霜大和尚とは、第23世住職石窓禅師の事だと推測されています。

 話の内容は、妖狐の怪談話ですが、洞泉寺で実際に起こった放火事件を参考につくられたとされています。

(参考資料:「山霧の記」について 岩国市図書館編「上田秋成全集第11巻」中央公論新社)

ささえ No.61 2012年5月号

49の巻…「茶がゆ」は災害のときの非常食?

 「茶がゆ」(岩国では「茶がい」と呼ばれている)については、奈良地方が発祥の地といわれています。

 岩国における茶がゆの歴史は、資料が乏しく、はっきりとしたことがわかっていませんが、慶長5年(1600年)の関が原の戦いの後、吉川家が12万石から岩国3万石(のち6万石)へ移封されてから、厳しい財政状況の中で、節米のために奨励されたとも言われています。

 また、岩国における茶がゆに関することとして「万徳院の茶がゆ」があります。横山は水害の多い地域であったこともあり、水害のたびに無数の避難者が高地にある万徳院に集まっていました。

 寺では、その避難者の救済のために茶がゆを接待していたのですが、人の数が多くなるにつれて、水を加えて薄めることとなったことから、水が多く米の少ないかゆが「万徳院の茶がゆ」とよばれるようになったようです。

 茶がゆを普及させた目的が節米にあるとされていますが、この風習を自給体制が備わっていない大島では積極的に「茶がゆ」が取り入れられたようです。

 また、柳井、周東地区では「さつま芋」の栽培が盛んで、「芋がゆ」が郷土料理のひとつとして再発見されているようです。

(参考資料:尼崎栄吉「茶がい」)

ささえ No.62 2012年7月号

50の巻…国木田独歩は、錦見(岩国)小学校に通っていた

 小説家で詩人の国木田独歩は明治4年(1871年)に千葉県銚子で生まれました。幼名は亀吉、後に哲夫と改めました。独歩は雅号(ペンネーム)です。

 父は司法省の役人で、仕事の関係から、5歳から16歳まで山口、萩、広島、柳井、岩国を転々とし、小学校時代を岩国市錦見の散畠(さんぱく)で過ごしました。明治11年8月から16年10月まで、錦見小学校(現岩国小学校)に通いました。

 亀吉少年は、負けず嫌いで相当ないたずらっ子でした。ケンカっ早いのに体が小さいため、大きい子にねじ伏せられて悔しい思いをしていました。そこで、爪を伸ばし、ケンカになったら相手の顔をいち早く引っかき、すぐ逃げるという作戦に出ました。そのため、「ガリ亀」とあだ名されていました。こんな亀吉でしたが、成績は優秀で1番2番を争っていました。

 独歩は、岩国を舞台にした小説「河霧」や「欺かざるの記」「画の悲しみ」を残しています。吉香公園内の文学碑には、「欺かざるの記」の一節、「岩国の時代を回顧すれば恍として更らに夢の心地す」と刻まれています。独歩にとって、岩国時代の思い出がどのようなものだったかがわかります。たくさんの作品を残しましたが、明治41年(1908年)37歳の若さで病死しました。

 独歩が住んでいた散畠では、家の垣根は杉の木で作られていました。独歩の家にも大きな杉の木があり、「独歩杉」と呼ばれ地域のシンボルにもなっていましたが、残念なことに平成16年の台風で倒れてしまいました。

ささえ No.63 2012年9月号