岩国のへぇ~ 51~60の巻


51の巻…岩国に根を張ったオリンピックオーク(ドイツ柏)二世

 昭和11年、ベルリンオリンピックの三段とびで金メダルを獲得した田島直人は、岩国の偉人として有名です。

 その田島直人に勝利の月桂冠とともに、授与されたのがオリンピックオーク(ドイツ柏)の苗木です。

 日本に贈られた苗木は、同オリンピックで、平泳ぎ金メダリストの前畑秀子さんらが持ち帰った9本でした。しかし、田島氏の母校京都大学に植えた1本以外枯れてしまいました。

 残った1本の木が成長し、実をつけるようになると、その実を発芽させようと計画され、苦労の末、苗木の育成が可能となりました。

 その二世の苗木は、田島直人ゆかりの地岩国にも植樹されました。

 現在「栄光の樹」であるドイツ柏は、大切に育てられ、市内では岩国高校と岩国運動公園で見ることができます。

(参考資料:「夢チャレンジ きらり 山口人物伝」(財)山口県ひとづくり財団発行)

ささえ No.64 2012年11月号

2の巻…日本の百科事典編纂のパイオニア 齋藤精輔

 齋藤精輔は、1868年(慶応4年)岩国市に生まれました。12歳で山口県で初めて作られた旧制中学校に一期生として入学し、その後上京して東京農学校に通いました。苦学生で、毛利公爵家の家庭教師をしながら勉強をしていましたが、優れた英語使いを探していた、三省堂の創業者、亀井忠一に見初められ、辞書の編纂を頼まれました。東京農学校を退学して編纂した辞書が、有名な「ウェブスター氏新刊大辞典和訳字彙」です。

 そのうち、日本で近代的な百科事典を編纂、刊行する必要性を強く考えるようになり、「日本大百科事典」を企画し、1908年(明治41年)に1巻を刊行しました。途中で三省堂が倒産するアクシデントもありましたが、大隈重信らの助けもあり、1919年(大正9年)に全10巻刊行の偉業を成し遂げました。

 数々の辞書、事典に携わり、1937年(昭和12年)に亡くなるまで、「日曜祭日の休日を廃し、連日連夜校正の事に当たる」ほどの徹底ぶりで日本の近代的辞書の礎を築きました。

ささえ No.65 2013年1月号

3の巻…ヘレン・ケラーが岩国空港から来日していた!

 「奇跡の人」の映画等で有名なヘレン・ケラー(1880年~1968年)は、自ら重い障害を背負いながらも、世界各地を歴訪し、身体障害者の教育・福祉に尽くしました。各国を周る中で、日本にも昭和12年、昭和23年、昭和30年と3回訪れています。その内2度目の訪日は、昭和23年8月29日マッカーサーの招聘(へい)で岩国空港に到着しました。日本各地で講演を行う出発点として、岩国に降り立ったのです。

 当日は、川下小学校の女生徒の花束を受けるなどの歓迎を受け、岩国で約8時間休憩・晩餐会等した後、岩国駅午後11時2分の特別列車で東京に向かいました。

 出発の際はホームを埋める市民等に見送られました。岩国での滞在時間は短かったものの、彼女は優しい微笑みを最後まで絶やすことなく過ごしたそうです。

 ヘレン・ケラーの講演活動は、日本の「盲人福祉の制定」に貢献したと言われています。

ささえ No.66 2013年3月号

4の巻…ブラジルに「岩国通り」という名の通りがある!

 ブラジルに岩国の姉妹都市があるのはご存知でしょうか?

 ブラジルには、日本からの移住者が多く、山口県からの移住者も多いのです。ジュンディアイ市在住の元在伯山口県人会長をはじめ、岩国出身の日系人の皆さんの積極的なジュンディアイ市への働きかけにより、平成元年の夏から、姉妹都市提携の機運が高まりました。

 その後、平成元年(1989年)9月21日にジュンディアイ市との姉妹都市提携について議会の承認を得て準備を進め、平成2年(1990年)4月9日、岩国市制50周年を記念して姉妹都市提携の正式調印を挙行し姉妹都市となりました。

 そして、ジュンディアイ市には岩国市との友好交流を願って、郊外のサンタ・テレザ地区に、平成6年(1994年)8月、ジュンディアイ市議会の承認を得て、サンタ・テレザ田園2通りを「岩国通り」と命名しました。

 また、平成7年(1995年)10月、市長、市議会副議長、市議会議員等総勢6名がジュンディアイ市を親善訪問し、姉妹都市提携5周年を記念して、「岩国通り」に植樹をしました。

(参考資料:「岩国市の国際交流」岩国市)

ささえ No.67 2013年5月号

5の巻…小糠踊りは、杜若踊りだった!

 「小糠(こぬか)踊り」は、江戸時代から岩国城周辺の町家や農家など、庶民の間で老若男女を問わず親しまれてきた伝統芸能

ですが、当初は「杜若(かきつばた)踊り」という名前でした。ところが、踊りの際に歌われていた民謡に「来ぬか来ぬかと浜に出て見れば 磯は松風音ばかり」という一節があったため、いつしか「来ぬか踊り」と呼ばれるようになりました。その後、世代から世代へと受け継がれていく中で、替え歌が歌われ、「小糠踊り」という本来とはまったく意味の異なった漢字があてられ定着してしまったのです。

 また、この「小糠踊り」の由来には、二つの説があります。一つ目は、出雲伝来説。初代藩主吉川広家が出雲に討ち入った際、出雲の踊りを大変気に入り岩国に伝えたのではないかと言われています。二つ目は、福岡移入説。藩政の初期に優秀な家来を福岡に遣わし、藩中黒田で行われていた面白い踊りを習って岩国に持ち帰り、これを後世にまで遺したとも言われています。

 現在、小糠踊保存会の方々がこの踊りを次世代に引き継ぎ、保存していくため、様々な課題に取り組みながら活動していらっしゃいます。

(参考文献:大岡昇「岩国の民俗と俚諺」岩国市立岩国図書館発行)

ささえ No.68 2013年7月号

6の巻…岩国藩の剣術師範 片山伯耆守久安(カタヤマホウキノカミヒサヤス)

 「伯耆流」といえば、剣の道を志す人なら、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。岩国では、「片山流」の呼称の方がなじみがあるかもしれません。

 伯耆流居合の流祖である久安は、天正3年(1575年)、紀州(和歌山)に生まれました。養父である伯父の松庵について幼い頃から、居合を学びました。その後、京都の愛宕神社で「貫」の一字を悟り、流儀を開いたと言われています。その後、関白・豊臣秀次、右大臣・豊臣秀頼に剣の指導をします。

 やがて、その名声は高まり、時の帝・後陽成天皇の御前で剣の腕前を披露し、その際、従五位下・伯耆守に叙任されたと伝えられています。

 元和元年(1615年)、豊臣家が大阪夏の陣で滅びると、久安は流浪の旅に出て、周防の岩国にとどまります。岩国藩主・吉川広家は久安を、客人として迎えます。そして、長男の広正や藩士の剣の師範として尽力しました。片山家は岩国藩の剣術師家として、廃藩まで長きに渡り仕えました。

 慶安3年(1650年)3月7日、岩国の地で76歳の生涯を閉じました。

(参考資料:松村久「豊臣家吉川家指南伯耆流柔術秘伝絵巻」)

ささえ No.69 2013年9月号

7の巻…臥竜橋は有料だった!

 宇野千代著の“おはん”の中に「町の宿舎ひのくづれで、よそのお二人と二三人あの臥竜橋の橋の上でええ心持になって風に吹かれていたのでございます。すると誰やら白い浴衣きた女がすうっとわたしの傍をすりよって…」という件(くだり)にある臥竜橋は錦帯橋下400mにある橋です。

 藩政時代、横山と岩国を結ぶ橋は錦帯橋だけで、庶民の渡河は渡船による外なかったそうです。この渡船は明治15年頃には村民の一、二の者が官の許可を得て、営業していました。渡船では増水時には川を渡ることができなかったので、明治20年、芦ケ原彦輔ら5名のものが発起して架橋することになり、渡船は廃止されました。最初は渡り賃人弐文、馬四文と規定されましたが、7月には人往復参文と改められ、渡橋銭を払っていました。

 しかし、明治21年7月31日に上流の木材が橋脚を襲い、流失してしまいました。

 その後、岩国町は、橋が度々流失したり、お金を払って渡ることの不便さから、明治43年、橋の持ち主に2,000円を払い、譲渡してもらって、修繕を行い、渡橋銭を廃止しました。

 昭和10年には近代的なコンクリート橋が完成しましたが、またもや昭和25年のルース台風により流失し、流された橋脚は今でも残っています。その後、架け替えが行われ、今では川西と岩国を結ぶ生活に欠かせない重要な橋となっています。

(参考文献:「岩国市史下・おはん」)

ささえ No.70 2013年11月号

8の巻…「金正院内裏びな」の孫三郎は実在の人物だった!

 「岩国の民話」に記載されている「金正院内裏びな」の話です。

 安芸の国の和泉屋さんに美しい娘がいました。その和泉屋さんには、先祖から伝わる立派な内裏びながありました。ある時、岩国の白銀屋から、その娘を息子の孫三郎の嫁にしたいと申し出があり、内裏びなを持って嫁入りしました。ところが、新妻はふとしたことから病気になり、あっというまに死んでしまいました。悲しみにくれる孫三郎は妻が大事にしていた内裏びなを鍛冶屋町、長谷屋さんに買い取ってもらいましたが、余りに大きいので体と衣装と解売りにしました。ところがその夜からどこからともなく泣き声が聞こえ、胸を痛めました。みんなで家をさがしてみると、戸棚のひなびつの女びなのひたいに汗が流れておりました。そこで、長谷屋助右エ門は孫三郎のもとに返しました。孫三郎は気を取り直し、商いに励み、商売は大繁盛したそうです。その白銀屋孫三郎さんは寛政元年、椎尾八幡宮第4回三十三年式年大祭において御神幸の小包係りとして名前が残っているそうです。その他、昭和56年TBS系テレビで放送された「内裏びな」物語があります。

(岩国まちづくり桜の会 池田さん提供)

ささえ No.71 2014年1月号

9の巻…新港にある岩国港は麻里布湊(みなと)と呼ばれていた!

 現在の岩国港は、当初麻里布湊と呼ばれ、明治・大正・昭和の戦中までは新港と呼ばれていた。新港はいまも町名として残っている。

 交通の利便を考え、経済を活性化するため、岩国藩政府の命を受けて岩国町人塩屋勘左衛門が新港を作ったと伝えられている。

 それまでは今津川を港にしていたが、沖合遠浅で、自他の諸船が河口付近の出入が不便だったので、商用向きの繁昌の為、築港となった。

 藩の経済は自給自足を原則としていたが、それを破る広域経済、交換経済をもくろむ築港は新しい経済感を立脚するものであった。新港というのは、ただの新旧だけでなく、新時代の港という意味だったのだろうか。

 麻里布湊を開いた香川琴山は、港の繁盛を祈って、港町に住吉神社を勧請した。

 新港ももとは麻里布町に属していたが、岩国港から海上26km先の柱島も麻里布町に属していた。

(参考文献:「岩国の歴史散歩・岩国郷土誌稿」

ささえ No.72 2014年3月号

60の巻…篤姫が錦帯橋を渡っていた!

 徳川十三代将軍家定の正室・天璋院篤姫が鹿児島から江戸へ嫁ぐ山陽路途中、高森宿(周東町)に篤姫一行は宿泊しました。その際、彼女は「回り道をしてでも岩国城下へ行き、錦帯橋を渡りたい」と岩国藩へ使者を送って申し入れましたが、「橋が破損しているため、通行をお断りする」との返事がありました。

 使者は篤姫に船での見物を伝えに帰りましたが、その翌日、なんと篤姫は番人と押し問答の末、強引に錦帯橋を渡ったという記録があったのです。

 彼女の非常に好奇心旺盛で豪胆な性格が感じられます。

 橋の上から眺めた錦川とその風景は彼女の眼にどう映ったのでしょうか…。

 この問答は岩国徴古館に保管されている岩国藩の出来事をつづった「御用所日記」に記載されています。

ささえ No.73 2014年5月号