岩国のへぇ~ 61~70の巻


61の巻…万葉集に詠まれた“岩国山”

 「周防(すは)にある 磐国山(いはくにやま)(岩国山)を 超えむ日は 手向けよくせよ 荒しその道」〈万葉集 巻四〉

天平2年、大宰府から都へ帰る大伴旅人(おおとものたびと)へ、山口若麻呂(やまぐちのわかまろ)が旅の安全を祈って詠んだ句です。

 当時岩国は、山陽道の交通の要所であり、和木と岩国を結ぶ古道がこの山上を通っていたとされ、役人等の往来でにぎわっていました。

 かつてこの山から切り出された木材が、錦帯橋の建造に貢献するほど昔は深林で、険しく存在感ある山でした。

 天守閣を守る城山と東西に対峙して、今は旅人とは疎遠で静寂な岩国山。

 岩国の町をどっしり見下ろす雄大な山々が、今も歴史をしのばせています。

(参考文献:「享保増補村記」「岩国郷土誌稿」)

ささえ No.74 2014年7月号

62の巻…吉川家と軍師官兵衛の深いつながり

 乱世を生き抜いた吉川家と、豊臣秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛。

 二人の関係は、数々の書状からうかがえるように深い親交を結んでいました。

 天下の情勢に明るい官兵衛は吉川家のために、秀吉との取次ぎや戦略を提案するなど手紙のやりとりを重ねています。

 父子関係においても、官兵衛は吉川広家に子息長政を鍛えてくれるよう頼み、一方広家は、一子就頼を黒田家へ養子に出すことを約束していたこともあったといいます。両者の信頼関係は親子代々続きました。

 二者は互いのどこにひかれたのでしょうか…。

 後に広家は関ヶ原の戦いにおいて官兵衛の長男長政を通じて、岩国3万石の初代領主となり、現在の岩国市の基礎を築きました。

 今も広家は京都大徳寺境内にある官兵衛の墓のそばで眠っています。

(参考文献:「黒田如水書状、吉川元春書状」「岩国市史」)

ささえ No.75 2014年9月号

63の巻…岩国の文化に影響を与えた僧 独立(どくりゅう)

 日本に水墨画や書法、篆刻(てんこく)を伝えた中国明の帰化僧「独立」。

 彼は、錦帯橋の建設に大きな影響を与えたとされています。

 当時持病のあった岩国領主・吉川広嘉が、医術にも長けていた独立を呼び寄せ治療にあたらせたのが二人の交流のはじまりです。

 明文化に関心のあった広嘉は、独立が持参した中国の地誌「西湖遊覧志」に描かれた、湖上の島伝いに架けられた六連のアーチ橋にヒントを得て、頑丈な錦帯橋を造ったといわれています。

 また独立は治療の傍ら、吉川家の墓所の場所を選んだり、城門の位置の変更を勧めたりするなど占いの分野でも力を発揮したとされています。

 独立は医学、工学、文学、書道等において名高く、その偉才さで藩主の信頼を得ていたのでしょう。度重なる独立の来訪は、岩国に多くの文化的歴史を残したといえるでしょう。

(参考文献:「僧独立と吉川広嘉」「岩国の歴史と文化」)

ささえ No.76 2014年11月号

64の巻…岩国に偉大な功績を残した松陰の兄 杉治(みんじ)

 幕末長州を舞台とした吉田松陰の妹文(ふみ)の生涯を描くドラマが今年から始まります。

 松陰と文の兄・杉民治は、岩国市本郷地域に偉大な功績を残しています。民治は、萩藩士杉百合之助(ゆりのすけ)の長男として生まれ、藩校明倫館で学びました。明治初期、毛利家最後の藩主毛利敬親(たかちか)公は、本郷村に民治を役人として置きました。

 平地の少ないこの山代地域で、雑木林を切り開き、川の水を水路に引き、新田開発を進めました。民治は、人情に厚く、その一生を人々の生活のために民政の仕事に捧げました。

 後に、農地開拓に尽力した民治の功績を讃える開拓碑が建てられ、当時造られた水路の一部は、今もなお町人のために使われています。

(参考文献:「本郷村史」「山口の先人たち」)

ささえ No.77 2015年1月号

65の巻…岩国最古の木造建築物「香川家長屋門(ながやもん)

 岩国城へ向かう続く道にどっしりと構える、香川家長屋門。岩国藩家老であった香川家の住宅の表門で、岩国で最も古い木造建築物といわれています。

 元禄6年(1693年)、錦帯橋構造の作図者・大屋嘉左衛門(かざえもん)によって建造されました。瓦一つ一つまで細部に家紋を刻した長屋門、通用門、平時門などがあり、身分、用件によって使いわけられていました。

 その中でも正面にある大門は、年にわずか3回(正月、秋の米納期、結婚式)しか開門されなかったと伝えられています。

 当時そのままの壮観な姿は、城下町岩国の栄えた往時をしのぶことができます。

(参考文献:「岩国小ちびっ子ガイド」「岩国の歴史と文化」「岩国柳井の歴史」)

ささえ No.78 2015年3月号

66の巻…日本の図書館の“生みの親”「田中稲城(いなぎ)

 日本最初の図書館学者、田中稲城。

 彼は日本の図書館史に大きな功績を残しました。

 安政3年(1856年)、岩国藩士末永藤三(とうぞう)の三男として現在の今津町に生まれました。(後に田中家の養子となる。)

 岩国藩校養老館、岩国英国語所で学んだ後、東京大学へと進学。後に文部書記官として欧米に留学し、図書館の業務や組織等を学びます。帰国後、日本最初の国立図書館である帝国図書館・初代館長として任命されました。

 当時、軍備拡充のため社会教育にかける予算が削減される中、図書館制度充実の活動に生涯を捧げ、国民への文化普及、図書館学の確立と発展のために尽力しました。

 晩年は帰郷し、岩国図書館を創設。ふるさとへ知識と教養の情熱を注ぎました。

(参考文献:「図書館を育てた人々」「きらり山口人物伝」)

ささえ No.79 2015年5月号

67の巻…幕末維新ゆかりの地~通化寺(つうけいじ)

 大同2年(807年)、岩国市周東の町に、唐から帰国の際に立ち寄った弘法大師が「通化寺」を建立したといわれています。

 当時は、紀州の高野山へ参拝できない者の代参の地として”西の高野”とも呼ばれ、栄えていました。

 高杉晋作率いる奇兵隊や、四境戦争で活躍した遊撃軍が、ここに陣営を置き、今も、高杉晋作が遊撃軍隊士におくった激励の詩が書かれた石碑が残されています。遊撃軍の遺品も多く、維新の志士を偲んでこの地を訪れる人々が跡を絶ちません。

 また、境内には雪舟作の庭園があり、四季折々の花や木が通化寺を彩っています。

(参考文献:「周東史誌」「諸隊の雄撃軍」)

ささえ No.80 2015年7月号

68の巻…明治の大岡越前!玉乃世履(せいり)

 世履は、岩国藩士桂修助の長男として現在の錦見に生まれました。

 その後朱子学者の玉乃九華の下で、儒学や文学を学びます。非常に努力家で清廉潔白な性格の世履は、当時の岩国藩主吉川経幹のお墨付きをもらい、勉学のため京都へ行きます。帰郷後は、亡くなった九華の玉乃の姓を継ぎ、第2次長州征伐時には学んだ西洋兵学を役立たせて活躍しました。

 明治維新後、司法の道を選んだ世履は、初代大審院長(現在の最高裁判所長官)に就任し、公正な裁きにより、「明治の大岡越前」と称賛されました。あの人気漫画「るろうに剣心」の主人公のモデルとなった河上彦斎の裁判も、世履が担当したようです。かつては同志だったとされる二人。世履はどんな思いで彦斎に判決を下したのでしょうか。

(参考文献:「-郷土の誇り-岩国偉人伝」)

ささえ No.81 20159月号

69の巻…夢のお告げと岩国美術館

 岩国城ロープウェイの目の前にあり、奈良時代から江戸時代の武具の甲冑や刀剣などの古武具や美術品を展示している岩国美術館。かつての名称は西村博物館でした。初代館長の西村重則は大正元年に錦見に生まれ、昭和38年に博物館を建設しました。そのきっかけとなったのが、重則が33歳の時に四国88ヶ所のお寺を巡ったお遍路でした。眠りについた重則の枕元へ弘法大師(空海)が現れ、「日本の文化財を後世に残しなさい。」と度々言われたそうです。そのお告げを聞き、身銭を切って数多くの甲冑を収集する事を決意しました。

 夢のお告げを守り、作り上げた重則の博物館は、現在でも世界に誇れる岩国の観光施設となっています。

(参考文献:「岩国の人脈」)

ささえ No.82 2015年11月号

70の巻…5万分1の確率!岩国の白 ヘビ

 国の天然記念物として有名な岩国の白ヘビですが、いつから岩国へ住むようになったのでしょう?

 白ヘビが増えたのは、17代藩主吉川広家が米作りに取り組んだことと関係しています。白ヘビがお米を狙うネズミを退治してくれるため、岩国の人々の生活とお米を守ってくれる神様のような存在でした。

 また、白ヘビの白い体色は5万分の1の確率でしか起こらない突然変異であるのにも関わらず、白ヘビが現在まで生き続け、これほどまでに私たちにとって身近な存在なのは、昔から岩国の人々が白ヘビに感謝し、そして白ヘビも岩国を支え、岩国の人々をずっと見守ってくれていたからと言えるのではないでしょうか。

(参考文献:「岩国のシロヘビ」週刊日本の天然記念物 動物編 「岩国のシロヘビ」)

ささえ No.83 20161月号