岩国のへぇ~ 71~80の巻


71の巻…エドワード・モースを魅了した日本のおもてなし

 エドワード・S・モースは、大森貝塚を発見したことで有名です。日本人の生活に非常に関心を持ち、貝塚だけでなく日本の陶器や建築を調べるために日本各地を渡り歩きました。そんな研究熱心なモースは、明治15年に岩国にも訪れています。宿泊した宿から覗く美しい錦帯橋や景色の素晴らしさに感嘆したそうです。見送りの際にはあらゆる人がお辞儀をしてくれるなど、日本人ならではのおもてなしに触れ、日本独特の文化にますます興味を惹かれました。

 日本の住宅は、外見は華美ではないけれども、一歩家の中へ足を踏み入れると、陶器から彫刻等の工芸品があふれており、芸術文化の宝庫であると驚いています。大森貝塚からおもてなし文化まで、海外から訪れたモースだからこそ日本の魅力を再発見できたのかもしれません。

(参考文献:岩国の歴史散歩、日本人の住まい)

ささえNo.84 2016年3月号

72の巻…錦帯橋に松が植えられた理由

 錦川上流にある岩国市御庄近くでは参勤交代の際、渡し船が利用されていました。しかし、大雨が続くと川が氾濫して渡し船が止まってしまう為、江戸を往復する西国の諸大名は吉川家の所有である錦帯橋を渡らせてもらっていました。

 大名行列が藩の要所を通る時は、行列の槍を倒して通るのが礼儀となっていましたが、小藩である岩国藩を馬鹿にして誰も槍を倒す者はいませんでした。そこで、悔しがった知恵者が枝ぶりのよい松の木を持って来て錦帯橋の袂に植えたのです。そうする事で行列の槍は嫌でも倒さなければ通れなくなり、岩国藩士は大喜びしたと伝えられています。

 今でも「槍倒し松(やりこかしまつ)」と呼ばれ、岩国武士の負けず嫌いを象徴する松として大事にされています。

(参考文献:ようこそ!岩国へ) 

ささえNo.85 2016年5月号

73の巻…フランシスコ・ザビエルも岩国を訪れていた!

 フランシスコ・ザビエルは、キリスト教を日本に普及した人物として有名です。天文18年(1549年)鹿児島に上陸し島津貴久に謁見した後、福昌寺の住職である忍室と交流を深め、多くの信者を得ることに成功しました。ザビエルは天皇、将軍、大名、公家など、さらに多くの人々にキリスト教の意義を説きたいと考え、中央から地方へとキリスト教の伝道を行おうとしました。

天文19年(1550年)に平戸(長崎県)を出発し、年末には山口に到着しました。そして大内義隆と面会。しかしザビエルは義隆を激怒させてしまい退席を命じられました。

 それから都を目指し山口を離れますが、危険な陸路を避けて岩国から海路で上陸を試みたのです。結果的に、海路を選択したことで戦乱の危険を避けることができたのかもしれません。

 一度は激怒した大内義隆ですが、翌年再び山口を訪れたザビエルを歓待し、キリスト教の布教を許可したそうです。

(参考文献:あなたの知らない山口県の歴史)

ささえNo.86 2016年7月号

74の巻…明治大正時代の新派劇(しんぱげき)俳優「静間小次郎」

 明治元年7月15日、岩国町散畠(さんばた)に生まれました。少年の頃なんと小次郎は南方一枝と広島の吉村斐山(ひざん)について漢籍(漢文で書かれた書籍)を修めました。そして、一心流剣道指南である父・静間廉次郎からは剣道を学びました。

 明治13年3月8日、岩国小学校へ入学。同15年6月、依願退校。国木田独歩の一級上で、山口中学へも一緒に行って学んだそうです。

 明治17年、京都の小学校で教師を勤めたが「オッペケペー節」で一世風靡した新派劇の創始者・川上音二郎の門に入り、上京して鳥越の中村座にて初舞台を踏みました。その後は各地の巡業に加わり、東上して都座川上座などに出演し、大阪松島八千代座では座長となりました。

 鎖国時代、西洋の文化に触れなかった日本が独自に生んだ演劇・歌舞伎。

 その後、明治に入り歌舞伎を軸に西洋の文化も少し取り入れた演劇・新派劇が始まります。現代ではシェイクスピア等の影響で新劇と呼ばれる種類の演劇が主とされています。

 新派劇の基礎を作った彼の功績は、とても大きいと言われています。

(参考文献:岩国の人脈) 

ささえNo.87 2016年9月号

75の巻…三段跳で世界新記録!田島直人

 山口県が誇る陸上選手、田島直人。彼は大阪で生まれ4歳の時に岩国へ移って来ました。学校に入学する前から兄や友達と走ったり跳んだりしながら元気いっぱいに育ちました。しかし5歳の時に姉が亡くなり、死というものは分からないものの、お墓の下に姉さんがいると聞かされると、好んでよく遊びに行くようになりました。姉のお墓は小高い石垣の上、石垣を飛び降りたり駆け上がったりして遊んでいました。直人は遊びの中で強い足腰のバネ、運動神経を養いました。

 小学校に入ると陸上競技に目覚め、中学校、高校、大学と進学してからも陸上競技を続け、全国的に注目されるようになりました。インターハイでは走幅跳で優勝し、次は日本一、オリンピックへと夢は膨らみます。とはいえ専門的な指導者もおらず、刺激もない中での練習が続いていました。そこで直人は先輩から聞いたことは何でも試し、肉体を強化しました。

 1936年(昭和11年)ベルリンオリンピック。直人は走幅跳で7m74cmの記録で銅メダル、三段跳では「世界新記録16mジャスト」で金メダルを獲得します。スポーツの盛んな学校に進学していれば、もっと早く日本一の一流選手になっていたのでは…と言われることも多い中、直人はこう言います。

 「山口でコツコツやったことが最後の勝利に導いてくれた」と。

(参考文献:夢チャレンジ きらり山口人物伝vol.1)

ささえNo.88 2016年11月号

76の巻…郷土料理「岩国寿司」

 岩国寿司は特産物の岩国レンコンを使用した郷土料理です。藩主が岩国城に登城する際に保存食として持参したとされ、別名「殿様寿司」と言います。ほどよく酢の効いた岩国寿司の味は、まさに殿様気分です。

 約380年前、当地で収穫された米とレンコンに野菜を配し、近海の魚の身を入れ、保存食にするために寿司に仕上げた岩国寿司が作られました。昔は保存食として士族の家で作られ、普通の家では作られていませんでしたが、今日では個々の家庭でも慶弔時には多用される郷土料理となっています。

 作り方はとても豪快で、大きな木枠に特産物である岩国レンコンや瀬戸内産の魚などの季節の具材と、寿司飯を芭蕉の葉を中敷きにして交互に重ね押して作ります。芭蕉の葉が枯れる季節には「ハスの葉」「レタス」「白菜」等を用いて、季節に応じて作られます。一見、ちらし寿司風ですが、何層にも重ねてサンドイッチ状にする作り方と、炊きあがったご飯にサワラや鯵の生魚の身をほぐして混ぜ込むのが特徴です。

 錦帯橋の周辺には何軒もの飲食店がありますが、お店によって味や食材が違うので、自分好みの味を探して歩くのもまた面白いですね。

 寛永6年(1853年)には、祭りの日は火の用心のため、午前8時より昼間は火を使わず寒食で済ますよう藩からのお達しがあり、「祭りの日の食事は寿司」というのが早くから定着していたようです。

(参考文献:知っ得やまぐち)

ささえNo.89 2017年1月号

77の巻…国重要文化財 旧目加田家住宅

 旧目加田家住宅とは、国重要文化財に指定されている中流武家屋敷です。

 18世紀中頃に建てられたこの屋敷の庭には、白梅が咲き、少し遅れて桜が咲き乱れる、吉香公園の名物です。

 岩国の武家屋敷は、錦川の氾濫に備えるため二階建てが多く、二階の一角には船着き場が設置されており、増水時にはそこから出かけるという工夫がなされています。

 特徴ある両袖瓦と平瓦を使用した二平葺き(にひらぶき)は、岩国の瓦師が考案し、岩国城下町に見られた地方色をなしています。

 また、道路側から見ると平屋ですが、裏から見ると中二階の構造になっています。これは、自分より身分の高い人を見下ろさないようにする為です。

 いろんな箇所に岩国の知恵や気遣いが見られます。

(参考文献:知っ得やまぐち)

ささえNo.90 2017年3月号

78の巻…農民の為に紙すき業を伝えた中内与左衛門通治(ちゅうないよざえもんみちはる)

 山代波野村(現在の本郷町)でのお話です。当時、波野村は毛利藩の下にあり、関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元は、藩の立て直しの為に、農民に過酷な税金をかけ、農民は苦しい生活を送っていました。四国の伊予(愛媛県)から移住して来た与左衛門は、苦しんでいる農民を見かね少しでも彼らを助けようと決意します。芸州(広島県)の吉田を度々訪れ、紙商人の家に寝泊まりして「紙すき」の方法を学んだ与左衛門は、紙の材料である「楮(こうぞ)」の木を探しますがなかなか見つかりません。根笠村(今の美川町)に良い楮の木を大切に育てて少しずつ殖やし、波野村に紙すき業を繁盛させたと伝えられています。現在、本郷町波野の河内神社境内には楮祖(ちょそ)神社が建っています。

(参考文献:岩国の歴史と文化)

ささえNo.91 20175月号

79の巻…悲運の道をたどった元奇兵隊総督 赤禰武人(あかねたけと)

 赤禰武人は天保9年(1838年)、柱島の医師松崎三宅の家に生まれました。大胆で正義感にあふれ、文武両道だったと言われています。

 15才の時に柱島を離れ、文学を遠崎村(大畠町)の僧月性に、武術を筑前(福岡)出身の剣客荘林藤吉に習いました。

 16才の時、阿月村(柳井)の長州藩重臣浦氏に見込まれて家臣の赤禰忠左衛門の家を継ぎ、赤禰武人となります。

 その頃、国内では尊王攘夷の思想が盛んに起こり、吉田松陰が開いた松下村塾で、武人は松陰の教えを受けます。

 文久2年(1862年)、江戸に上った武人は、高杉晋作、久坂玄瑞らと、幕府を倒し天皇政治を起こすべく、外国人を襲撃したり、英国公使館を焼き払うための指揮を執ります。

 このため幕府の捜索が厳しくなり、武人は山口に帰国して身を潜めます。しかし、萩藩は功績を買って、武人を諸隊の隊長にしたのです。

 その後、武人は高杉晋作の後を受けて奇兵隊の総督になりますが、長州藩内で幕府に従う「俗論派」についたことで、高杉晋作率いる反幕府の「正義派」に敗れ、裏切り者の汚名をきせられたまま、慶応2年(1866年)、処刑されてしまいました。

(参考文献:岩国の歴史と文化)

ささえNo.92 2017年7月号

80の巻…かをる「梅が香」松がね油

 江戸時代、岩国の町で売っていた名物では「松金油」がいちばん有名でした。天和岩年(1681年)松金屋の四代目田中又三郎満清が髪に付ける香油を松根の樹脂により発明し、売り出したのが始まりと言われています。

 家伝によれば、松金屋は初め糀屋と号して材木町にいました。三代目の清兵衛のとき玖珂町に移って松金屋と改称しました。

 五代目の満慶は和歌を学ぶために、京にも出向き、松がね油を歌に詠みました。

 やがて戯作家の山東京伝の狂歌に「岩国の十露盤橋の油店、二一天下にかほる梅が香」とうたわれ、都まで芳香を移すようになりました。

 「梅が香」は、松がね油の商品名です。

(参考文献:岩国の歴史散歩)

ささえNo.93 20179月号