101の巻…「守内みかん」はかつて山口県産の貴重なみかんだった
「守内みかん」は山口県産の貴重なみかんで、日本古来からあった「にっぽんたちばな」又は「紀州みかん」の突然変異によって発見され、江戸時代中期には旧北河内村字守内、旧藤河村字田原で、北河内の特産物として栽培されていたようである。
栽培の最盛期は、大正時代から昭和15年ごろであった。農家一戸当たり30本~40本栽培し、玖珂、高森、岩国、南桑、大竹などに「一升いくら」で行商されていた。米との物々交換もされていたようだ。
しかし、「守内みかん」は高木で種が多く、みばえが悪く、第二次世界大戦がはじまると、人手不足と肥料の入手が難しくなったことや寒さにも弱いことから昭和20年以後は衰退の道をたどった。
この地域には「守内みかん」の雑歌があり、守内みかんを俵(田原)につめて、みしょう、みしょう(御庄)とただ(多田)行けば、雨は降るいち(古市)、気はせきど(関戸)、背なにゆたんぽをおうちだこ(大内迫)、やれ行け、それ行けいけがさこ(池ケ迫)こけて頭をうつのはら(宇都の原)、泣く泣く通るなかつはら(中津原)、ようも見てきた、しんみなと(新湊)
このように地域の名前を使って歌が作られていた。出てくる地名は旧山陽道に沿ったものであることから、出荷経路この旧山陽道を利用し、新港から広島、四国、九州へ出荷されたものと思われる。
参考文献:岩国市立北河内中学校一年「郷土の産業をささえた守内みかんの研究」
ささえNo.113 2021年1月号
102の巻…大火事の教訓で生まれた工夫された町並み
高森の町は玖西盆地(玖珂盆地)の西よりにあって、岩国、徳山、柳井、光に行く道がこの町を要にして通り、買い物や病院、岩徳線の列車やバスに乗る人でいつも賑やかです。
その元は、およそ江戸時代に造られたと考えられていて毛利藩が宿場にして町を整えるようになったからだそうです。
現在は、もうすっかり西洋風になってしまった家もありますが、まだ白壁に中二階の家々が昔の面影を残し、縦向き(入り母屋づくり)、横向き(切り妻づくり)に並んでいます。
なぜこのような工夫がしてあるのかと言うと、享保17年(1732年)11月15日に182棟の建物が焼けた大火事があり、この大火事を教訓に全てが焼けてしまうことのないように、縦・横と、家の並びを工夫し何軒目かに小路をつくり、また東川から水を引いて街の中央を流れるようにしてあり、街の中を川が流れている珍しい風景は昭和30年頃まで続き、川で馬を洗ったり、洗濯をしたり、夏は並木の下で夕涼みを楽しむ姿が見られました。
参考文献:ふるさと玖西の歴史と民話
ささえNo.114 2021年3月号
103の巻…ハワイ定番土産の生みの親は岩国出身!
ハワイの旅行土産として定番となったハワイアン・ホースト社の「マカデミアナッツ・チョコレート」。その生みの親である日系三世の滝谷守さんは第一回官約移民としてハワイに渡った山口県岩国出身の祖父母の長男と、同じく岩国生まれの母との間に生まれました。滝谷さんは岩国の小・中学校から山口県師範学校へ進んだ後、1932年(昭和7年)にハワイへ帰り、日系三世で祖父が岩国人である宇野愛子さんと結婚しました。
子供の頃から「世界一のお菓子屋さんになる」という夢を抱いていた滝谷さんは、ハワイの名産であるマカデミアナッツを使ったお菓子を作ろうと思いつき、試行錯誤を重ねた結果チョコレートとのマッチングが一番合うことを発見しました。そして、妻・愛子さんと協力して特別にまろやかなミルクチョコレートのレシピを発明し、商品化したのが「マカデミアナッツ・チョコレート」の始まりとなりました。その後、滝谷さんは多岐にわたる事業を次々に展開し、ロサンゼルスやブラジル、日本など世界に向けて羽ばたきました。
そして滝谷夫妻の死後、非営利の慈善団体が創設され、ハワイで学ぶ学生への奨学金支援をするなど社会貢献に努めています。
参考文献:ハワイに開いた大輪のロマン 追想マカデミアナッツ・チョコレートの「滝谷守」
ささえNo.115 2021年5月号
104の巻…「獺祭(だっさい)」の名前はあの動物が関係している!?
山口を代表する日本酒の銘柄「獺祭」この名前の由来を知っていますか?
「獺祭」を製造している旭酒造の酒蔵は、岩国市周東町獺越(おそごえ)にあります。現会長で三代目当主の桜井博志さんは200年以上の伝統を持つ普通酒「旭富士」を一新し苦闘の末に純米大吟醸酒を造りました。しかし「旭富士」の名では味わう前に手に取ってもらえない現状があったため、銘柄の変更に踏み切りました。
桜井さんは酒造の所在地である獺越にちなんだ名前にしたいと考えました。その地名は「川上村に古い獺(かわうそ)がいて、子供を化かして当村まで追越してきた」という逸話が由来とされています。そこで桜井さんは獺を用いた「獺祭」という名前を思いつきました。
また、日本の文学界に革命を起こしたとされている俳人・正岡子規が、詩や文をつくる際に多くの参考資料等を広げちらかす自身の様子を獺と例え、雅号を「獺祭書屋主人」と号していたことも由来とされています。
「獺祭」には「文学界に革命を起こした正岡子規のように日本酒界に革命を起こす」という桜井さんの強い意思と、地元への思いが込められています。
参考文献:「獺祭」の挑戦~山奥から世界へ~
ささえNo.116 2021年7月号
105の巻…南岩国バイパスの下に消えた秘密飛行機工場
いまから76年前の太平洋戦争末期、現在の南岩国バイパス道路には「地下飛行機工場」がありました。正式名称は「旧海軍第十一航空廠(こうくうしょう)岩国支廠」。空襲を避けるため、広島県呉市広前町の本廠を地下に疎開させる計画で作られました。工場は、3カ所に延長約2キロのトンネルが網目状にあり、第1区が翼工場、第2区が胴体工場で、第3区が部品加工工場となって、本土決戦用の戦闘機「紫電改(しでんかい)」を製造していました。最終組み立て工場は地上に建設されましたが、カモフラージュの為に上部に土をかぶせていたといいます。
地下トンネルには軍人部隊が投入され、千人規模で海土路町に駐屯していました。隊員の平均年齢は40歳、補充の召集兵がほとんどで土木作業の経験者も少なく、小中学生までもが手掘り作業に加えられました。
「地下飛行機工場」では、本土決戦用の局地戦闘機「紫電改」の機体を月40機生産することが終局目標となっていましたが、第1号機が完成する直前に終戦を迎え、その役目を終えました。
参考文献:コープやまぐち岩国地域 平和ネットワーク委員会
ささえNo.117 2021年9月号
106の巻…寂地山の大蛇と寂仙坊
昔々、寂地山(現・岩国市錦町)に1匹の大蛇が住んでおりました。大蛇が一度体を動かすと、七つの山、七つの谷が揺れ動き、吐く息には恐ろしい毒が含まれていました。
その頃、里にはお人よしのおじいさんとおばあさんとその孫娘が住んでいました。ある日、孫娘が山へ花摘みに行ったところ突然大蛇に出会ったのです。大蛇は大きな冷たい目で娘をじっと睨みつけました。それから孫娘は重い病気にかかり、高い熱を出して病の床についてしまいました。おじいさんとおばあさんは大変心配して、浮かぬ顔で過ごす日が増えていきました。
ある夏の暑い日のこと、この里に旅のお坊様が通り、おじいさんとおばあさんはお坊様を丁重にもてなしました。お坊様は感激し、そのお礼にと大蛇の退治を約束しました。あくる日から里の人たちが集まってお寺「寂林院」が建てられ、お坊様は自らを「寂仙坊」と名乗り、大変な荒行を21日もの間休むことなく続けられました。命を懸けての「寂仙坊」のお祈りに負けたのか、満願の日にあたる21日目の朝、大蛇は苦しんだ様子で深い深い沼の中に閉じこもってしまいました。
里には平穏が訪れ、おじいさんの家でも孫娘の病気はすっかり良くなりました。
参考文献:山口のむかし話 改訂4版
ささえNo.118 2021年11月号
岩日線は岩国と日原(島根県)を結ぶ予定で建設が計画されていたが、戦争や不景気、台風被害などに阻まれて思うように工事が進まなかった。1960(昭和35)年11月に川西~河山間が完成。1963(昭和38)年には錦町まで延長した。開業当初は周辺住民や鉱山労働者の移動手段として、また鉱山からの貨物輸送などに利用されていたが、車の普及や鉱山の閉鎖に伴い利用が減少。第三セクターに運営を移管することとなった。1987(昭和62)年に錦川鉄道株式会社が設立し、それに伴い、路線名も岩日線から錦川清流線へと変更した。
錦町から日原へと続くルートは、すでに工事の大部分は完成しており、あとはレールを敷く作業のみとなっていた。しかし1980(昭和55)年の国鉄再建法によって工事は凍結。完成目前となっていた用地は2001(平成13)年まで使用されず、同年4月に国鉄清算事業団から、当時の錦町に無償譲渡され、この用地をどのように活用するかが行政を中心に検討された。市民からのアイデアなども参考にし、跡地と広瀬トンネルを公園化して園内に遊覧車を走らせる計画案を採用。創意工夫によって人気観光遊覧車へ成長した「とことこトレイン」は、2004(平成16)年に国土交通省から「日本鉄道賞」を受賞し、地域活性化への貢献につながる地方鉄道の事例として注目されている。
参考文献:山口のトリセツ
ささえNo.119 2022年1月号
河川争奪とは、浸食力(岩盤や地層を削る力)の強い川が、別の川の上流を奪いとることをいう。
宇佐川上流部は、かつて日本海へと流れる高津川に合流していた。現在の高津川は、島根県鹿足郡吉賀町田野原を水源とする川だ。流域面積1090㎢を有する一級河川で、日本海に注いでいる。かつての高津川(古高津川)は、現在よりも上流が東の方にあった。現在の宇佐川が、支流である深谷川と向峠付近で合流し、高津川源流の田野原の方に流れていたのである。宇佐川や深谷川は浸食力が強く、周囲の山を侵食し、流域に深く幅の狭い谷を形成している。宇佐川の谷頭(こくとう)(谷の最上流部)が侵食や断層の横ずれに伴う移動によって古高津川の方に動いていった結果、向峠の東で古高津川の上流を争奪、宇佐川流域に取り込んでしまったのだ。これらの河川争奪の発生は、中国山地西部の山々が地殻変動で隆起したことや、断層のずれに伴う移動に関係している。
参考文献:山口のトリセツ
ささえNo.120 2022年3月号
豆腐・こんにゃくなどは自家製造が通例である村々においては大豆や蒟蒻玉はどこでも栽培されていた。そして、自給料を越えた分が商品として市場へ出された。蒟蒻玉は岩国領では坂上・阿品方面から城下へ出されるものが多かったようである。天保15年の例であるが、阿品村から蒟蒻玉二千貫目を他所売りすることを願い出て許可が下り、大量に領外、即ち瀬戸内沿岸の各地へ輸出するほどに生産していたことがわかる。また、渋前では蒟蒻玉は通り手形さえ示せば重量を確認することもなく通すようにせねば交通が滞るほど輻湊していたことを示す文書も確認された。こうして蒟蒻玉は岩国城下へ入り、一部はコンニャクに加工され、一部は領外へと港から搬出された。
土手町の小松屋は地の利を得てか蒟蒻玉の仲買商を何時頃からか稼業としていた。明治2年に小松屋坂次郎は斎宮屋助右衛門の子、新介から山代産(萩藩領)蒟蒻玉を買い取り、岩国の役人の検査を受けないで、山代役人の検査だけで輸出してしまったことを咎められる事件もあった。
参考文献:岩国城下町の民俗
ささえNo.121 2022年5月号
江戸時代の絵画の基礎を築いたとされる狩野派の狩野探幽。探幽は幼い頃からたぐいまれな絵の才能を持っていたといわれており、2歳の時には筆を渡したら泣き止み、4歳の時にはプロと肩を並べるほど素晴らしい絵を描いたなど数々の伝説を残しています。江戸幕府御用の絵師に抜擢された探幽は、幕府の依頼を受けて大阪城・二条城・名古屋城などの障壁画制作を次々とこなします。
そんな探幽と吉川広嘉の出会いは広嘉が病気治療をかねて京都に滞在している時でした。2人は親しく交流していたとされています。吉川史料館が所蔵している掛軸には「自然の移ろいにゆかしく融和する品性」を大切にする探幽の錦帯橋が描かれています。広嘉は「墨絵は、濃く画かれたところではなく、淡い部分を想像で補いながら追うと、柔らかい光をおび、うるおいにみちたものが、ほのかに立ち上がってくる」と、狩野探幽の言葉をしきりに話していたとされています。
参考文献:錦帯橋ものがたり
ささえNo.122 2022年7月号