岩国のへぇ~ 11~20の巻


11の巻…野球から生まれた回転レシーブ

 1908年(明治41年)4月15日ハワイで生まれた「杉田屋守」は、13歳の頃、叔父を頼りに来日、岩国中学校に入学しました。その後、柳井中学校に転校し、早稲田大学へ入学しました。大学では野球部に入部し、1937年(昭和12年)にはプロ野球のイーグルスに入団、強肩の外野手として活躍しました。同年秋のリーグでは、打点王争いで4位という好成績を残しました。ちなみに、この年は、有名な大投手「沢村栄治」がタイトルを総ナメにした年でもあります。

 1941年(昭和16年)には、現在のスワローズの古田選手のように、選手兼監督となりました。1948年(昭和23年)には岩国に帰り、野球用具専門店を開いていましたが、1972年(昭和47年)5月12日に64歳でなくなりました。

 選手時代に杉田屋が編み出したのが、回転して球をとる技でした。この技は、やがてバレーボールで使われるようになり「回転レシーブ」と呼ばれるようになりました。

ささえNo.24 2006年3月号

12の巻…岩国が生んだ作曲家 吉田矢建治

 岩国出身の作曲家といえば「美しき天然」の田中穂積が有名ですが、そのほかにも偉大な作曲家がいます。吉田矢健治【1923年(大正12年)~1998年(平成10年)】がその一人です。

 キングレコード専属作曲家で、たくさんの歌謡曲を作曲しました。代表作に、春日八郎の「雨降る街角」(1953年:昭和28年)、三橋美智の「夕やけとんび」(1958年:昭和33年)、バーブ佐竹の「カクテル小唄」、江利チエミの「ひとり泣く夜のワルツ」などがあります。とくに「夕やけとんび」は、220万枚を売るミリオンセラー!イントロの名曲とも言われています。

 『ハァ~、ちょっとおいでよ錦帯橋に~』と歌う「岩国鵜飼音頭」、岩国小学校の新しい校歌の作曲も手がけています。満州の陸軍四平戦車学校では、作家の司馬遼太郎と同級生でした。

ささえNo.25 2006年5月号

13の巻…岩国、錦見、横山、川西、平田に"町"がつかないのは何故?

 平成の大合併で、地名を”まち”と呼ぶように定義づけられたのですが、岩国、錦見、横山、川西、平田の5地区だけは”まち”と呼ばないようです。なぜでしょうか?

 1600年の関ヶ原の戦いの後、出雲の国から岩国の横山に移った吉川広家公は、「まちづくり」に着工しました。横山の三方を迂回する錦川を天然の外堀として横山を政治の中心地にしました。そして、一面川原だった川向こうを埋め立てて、町割りを行い、城下町としました。

 1889年(明治22年)に町村制が実施されて、横山、川西、平田の3か村が横山村に、錦見村と岩国町が岩国町になりました。

 平田が横山村に含まれたのは、江戸時代に川西村庄屋の管轄下にあったためと思われます。その後に横山村と岩国町が合併して岩国町になり、合併を繰り返して今日に至っています。1905年(明治38年)の合併で岩国町が成立した時、居住表示で5地区がなぜか現在まで”町”をつけないようになっています。昔の城下町のなごりでしょうか?推測です。

ささえNo.26 2006年7月号

14の巻…昔、錦帯橋は「国道」だった!

 「国道」は、国が建設・管理する道路のこと。日本で初めて「国道」が制定されたのは、1876年(明治9年)そして今から330年前の1673年に作られた国の名勝「錦帯橋」が国道になったのは、1877年(明治10年)のこと。当時、錦川を渡ることができる橋は錦帯橋だけだったので、庶民の大切な道路でした。

 それから37年後の1914年(大正3年)、錦帯橋の下流に臥龍橋(がりょうばし)が造られ、これが国道となり錦帯橋は市道になりました。

 さらに1966年(昭和41年)には、上流に錦城橋(きんじょうばし)が造られてこちらが市道になり、錦帯橋は市道でもなくなってしまいました。しかし、地域の人々は今でも錦帯橋を普段の生活に利用しています。

 ちなみに、名勝に指定されたのは、錦帯橋だけでなく上流約630m~下流450m一帯です。橋と自然がセットで『景色が良いところ』なんですね。

ささえNo.27 2006年9月号

15の巻…江戸時代、すごい彫刻師がいた!

 江戸時代、岩国に素晴らしい彫刻師がいたことをご存知ですか?その人は、出目上満(でめじょうまん)。千石原の生まれで、岩国藩の作業組に属した工人です。主な作品に、鷺神社(横山3丁目)の四面の神楽面(有形文化財)と、金正院(川西1丁目)の木造力士像(有形文化財)などがあります。

 神楽面は、1800年(寛政12年)と1845年(弘化2年)に奉寄進されたもので、彫刻技術が優れており、非凡な才能をうかがわせる作品です。蛙股の力士像は、力強さがあり、見るものを圧倒します。金正院は、もとは観音様といわれ、1800~1820年頃改築しました。像はその時奉納されたものと思われます。

 出目上満という名前は称号で、本命は、福屋弥惣左衛門といい、1845年(弘化2年)に没しています。

 芸術の秋です。古の芸術家の作品を堪能してみてはいかがですか。

ささえNo.28 2006年11月号

16の巻…銭壷山は、大判小判がザックザク?

 「山口県ふれあいパーク」がある銭壷山(由宇町)は、旧由宇町村、神代村、日積村の境界上にあります。「銭壷」とい名前ゆえ、様々な伝説が残っています。

・源平合戦にやぶれた平家が、財宝を壷に入れて埋めた山。

・山頂に海賊の番屋があり、のろしを上げて仲間に知らせていた。沖の船から見ると火が燃え上がるので、船人が怪しみ、山には海賊の財宝が埋めてあるに違いないと思った。

・大島の久賀焼き討ちの時、神代の人々がこの山に遭難し、所持金を埋めた山。

・銭壷山には、「日舞ヶ岡」という丘があるくらい展望がいい。山の真ん中がくぼんでいる状態が銭に似ていることから名がついた。

 埋蔵金伝説はたくさんありますが、実際に掘り出されたのか、財宝が発見されたのかは不明。故郷の銭壷山に「そうじゃげな」というロマンが引き継がれています。

ささえNo.29 2007年1月号

17の巻…芥川龍之介の父は美和町出身!

 「羅生門」「蜘蛛の糸」などを書いたかの有名な文豪「芥川龍之介」の父親が、岩国市美和町の出身だったことをご存知ですか?

 父親の名前は「新原敏三(にいはらとしぞう)」。1850年(嘉永3年)、美和町生見に生まれました。15歳の時、長州藩の農民兵となり、その後の戦争で重傷を負いました。そして、萩で結婚しましたが、まもなく離婚して上京。牛乳屋を経営し、大繁盛したそうです。

 龍之介は、1892年(明治25年)、敏三と2人目の妻フクの長男として誕生しました。その後フクの実家の芥川家に引き取られ、養子になりました。

 敏三は、晩年、月に一度龍之介と雑談することを楽しみにしていましたが、1919年(大正8年)70歳でこの世をさりました。新原家の菩提寺である美和町生見の真教寺に、ゆかりの石碑が立っています。

ささえNo.30 2007年3月号

18の巻…日本のエジソン!藤岡市助

 今年は、岩国出身の藤岡市助の誕生150年です。日本で初めて電灯(アーク灯)を灯し、国内初のエレベーターの設計・設置、国内初の電車を走らせる等、数々の実績を残し、日本の電気界の父、日本のエジソンと親しまれました。

 通称「岩国電車」は、市助により中国地方初の電車として1909年(明治42年)に新町~麻里布間に開通した電車です。(ちなみに広電は3年後)しかし、岩徳線の開通により、1929年(昭和4年)に廃止になり、日本で最初に廃止された電気鉄道となりました。

 市助の創立した電球製造の「白熱社」は、東芝の前身の1つで、東芝創立者の1人として紹介されています。岩国小学校横の教育資料館には、市助の貴重な資料が沢山展示してありますので、是非ご覧下さい。

ささえNo.31 2007年5月号

19の巻…錦帯橋の鵜飼鵜の世界も年功序列?

 錦帯橋の鵜飼の主役の鵜は、川で元気いっぱい働いていますが、実は海育ちの「ウミウ」です。海で捕獲して、約1年半の訓練を行い、鵜飼の鵜として約10年間活躍します。

 おもしろいことに、鵜の世界にも年功序列があるようで、船べりに年齢の高い順に並びます。鵜のほうが礼儀正しいのかもしれませんね。鵜匠は、我が子を育てるような愛情で鵜を育て、信頼の絆で結ばれています。

 錦川鵜飼は約400年前に、岩国藩主吉川広嘉公の青年時代に始まったという説があります。一時中断していましたが、1946年(昭和21年)に錦川鵜匠宗家である故岩見屋保が復活させました。毎年6月1日の鮎漁の解禁とともに、「鵜飼い開き」が催されていました。今年は、開催が危ぶまれましたが、市民の熱意で1ヶ月遅い7月1日から開催されています。

 夏の風物詩、鵜飼を皆さんも是非ご堪能下さい。

ささえNo.32 2007年7月号

20の巻…山代最後の代官、杉民治は吉田松陰の兄だった!

 江戸時代、本郷に山代地域一帯の代官所(勘場)がありました。最後の代官(1870年~1876年:明治3年~9年)であった杉民治は、ほとんど平地のないこの山代地域で、雑木林を切り開き、川の水を水路に流して米作りができるように、水田開発に偉大な功績を残しました。 

代官所の門は、西照寺が譲り受けて寺院の山門としており、当時の様子を今に伝えています。

 杉民治は、なんと吉田松陰の実兄です。(松陰は、吉田家に養子に入った)民治は、常に弟の松陰を物心両面支え続けました。ちなみに山陽道の宿駅であった関戸の本陣跡には、松陰が22歳の時、関戸を越えた折に詠んだ詩の石碑が立っています。また、小瀬の渡し跡には、安政の大獄で江戸に護送される29歳の松陰が詠んだ詩が刻まれた「吉田松陰記念碑」があります。

ささえNo.33 2007年9月号