“岩国石人形”とは、人の形をした石のことです。岩国では江戸時代から、たくさん並べて大名行列などになぞらえたり、郷土玩具やお守りとして大切にされています。
“岩国石人形”の製作者はなんと“ニンギョウトビゲラ”という昆虫! 幼虫が錦川に生息し、小石などで作る筒巣が人のような形をしていて“ 石人形”と呼ばれるようになりました。虫は成虫となって巣立ち、“石人形”の中は空ですからご心配なく。
昔の人は、“石人形”は錦帯橋の人柱の生まれ代わりといい、大切にしていました。言い伝えによると1673年、最初に橋が流された時、貧しい武士が人柱になろうと名乗りを上げましたが、父を失うことを悲しんだ二人の娘が白装束で現れ、橋台深く身を投げました。姉妹の体は“石人形”と化し、人々を事故や災害から守っているといわれています。そのおかげで、錦帯橋もその後300年近く流出しなかったといいますが、その後の調査では、錦帯橋に人柱はなかったそうです。
今でも、この小さな人形を七福神やお地蔵様、武士や女性に見立てて創作しています(岩国石人形資料館)。小さな砂粒の固まりなのに、それらしく見えるから不思議です。このように珍しい貴重な文化が今も受け継がれています。
ささえNo.44 2009年7月号
玖珂町に、弥生時代後期から古墳時代初期を代表する遺跡があります。3,000点以上の土器、金属器、石器等が発見されて清水遺跡です。
1987年(昭和62年)、玖珂町柳井田中字清水の山陽自動車道建設予定地に弥生土器が発見されました。約1万㎡を発掘調査した結果、この遺跡は50m前後の丘に作られた小さな集落国家の遺跡と考えられています。
その住人たちは集落を守るために、なんと周囲に二重(一部三重)の濠(ほり)を掘っていました。三重の濠は、全国でも珍しいそうです。濠は、幅2.5~5m、深さ1~2.4mで、これで外敵の侵入を防いでいたようです。
遺跡には、13軒の竪穴式住居跡、7個の幼児の壷(甕:かめ)棺墓、1基の箱式石棺、22ヶ所のテラス状の遺構がありました。また、稲の穂を刈り取るために使ったと思われる石包丁なども出土しました。どのような状況で食べたのか、濠の中からは弥生時代のものと思われる桃の種も見つかりました。
幼児の棺が出土したとは不憫な気もしますが、稲を育て桃を食べていたかもしれない当時の人々は、とても身近に感じられます。どのような人がどのような思いで暮らしていたのか、思いをはせてみたい方は、出土品の一部が展示されている「玖珂あいあいセンター(℡ 82-6511)」へGO!
(参考文献:清水遺跡の出土品が展示されている玖珂あいあいセンターの資料等)
ささえNo.45 2009年9月号
岩国市南河内地区の特産品で知られる岩国栗は、収穫時期別に「筑波(つくば)」「銀寄(ぎんよせ)」「岸根(がんね)」の3種類に分けられます。
その中でも岸根栗は、数百年前から岩国市美和町で栽培され、日本一の大きな栗として有名です。大正2年に、その地名をとって「岸根栗」と命名されました。
栗の中では晩生(おくて)で、実をつける最盛期は、10月中旬から下旬まで。非常に実が大きく、通常で30g前後、大きいもので70gもあります。
貯蔵性が優れており、冷蔵で保存すると非常に甘みが増します。外見は薄黒く艶がありませんが、国の奨励品種で海外でも有名な栗です。美和町の弥栄湖畔には、岸根栗の原木もあります。
ささえNo.46 2009年11月号
岩国市玖珂野口から、柱野に抜ける欽明路トンネル(欽明路道路)の上には、旧山陽道が通っています。この道は、坂やカーブが多いですが、今でもかなりの人が利用しています。中でも、磐国山(いわくにやま)の欽明路峠は、急な坂で「山陽道四十八次」の最大の難所といわれ、万葉集にも“周防なる磐国山を越えん日は手向けよくせよ荒きその道”とあります。「磐国山は険しく、危険であるから山の神をねんごろに祭り、道の安全を祈りなさい」という意味です。このような難所を、その昔、大宰府に行く高官や参勤交代の大名達が通って行きました。
錦明路峠は、近くにある「欽明寺」から名前がつきました。この寺には第二十九代欽明天皇(大和時代~飛鳥時代)が九州からの帰りに腰をかけられたという「腰かけの石」があり、これが寺の名前の由来とされています。錦明路道路の名前の由来をたどれば、仏教を日本に伝えた欽明天皇にたどりつくのです。
錦明路峠を越え、中峠を下ったところには二軒の茶屋がありました。一軒は「もみじの店」といい、もち米を蒸した名物の外郎を売っていたそうです。難所を無事通り抜けた旅人は、ほっとして番茶をすすりながら休んでいったのでしょう。
ささえNo.47 2010年1月号
初めて岩国に住んだのは、ヘルベルト・A ・スティーブンスというイギリス人でした。スティーブンスは、24歳の時、旧藩主吉川経建の依頼で、明治4年(1871年)7月から明治6年(1873年)6月までの2年間、藩校「養老館」で教鞭をとりました。有名なラフカディオ・ハーンが松江に来たのが明治23年ですから、吉川公はとても早い時期に教師を招き入れたことになります。
スティーブンスが教えた科目は、英語・仏語・独語・数学・地理学・史学・天文学と多岐にわたっていることから、彼が優秀な教師だったことが分かります。わずか2年間の教師生活でしたが、教え子には、日本のエジソン藤岡市助、帝国図書館初代館長の田中稲城、鉄道の権威大屋権平、中央大学創立に参画した渡辺安積など、後に有名になった人たちがいました。
若くて優秀な西洋の青年を、ちょん髷を切って間もない岩国の人たちはどのように見たのでしょうか? また、スティーブンスの岩国での生活はどのようなものだったのでしょうか?
岩国を去った後は、神戸に移り住み兵庫裁判所の通訳の仕事に就きましたが、明治11年(1878年)5月3日に突然亡くなりました。31歳の早すぎる死でした。お墓は、六甲山の外人墓地に、今でもひっそりとたたずんでいます。
(参考文献:岩国に最初に住んだ西洋人『スティーブンス』のこと)
ささえNo.48 2010年3月号
吉川家と由宇の関わりは深い。関ヶ原の合戦で西軍が敗れた後、初代広家が軍平を率いて上陸したのは由宇の浜で、広家が39歳の頃であった。
さて、岩国藩初代の藩主となった吉川広家はただちに城郭の構築、城下の設定、職制の整備や民政に力を注いだ。二代広正は行政改革を行い、「御蔵元」をおいた。
岩国領における領民支配は行政庁である御蔵元が所管し、領内のうち郷村部を河内・山代・由宇・玖珂・柳井の五つの組に分け、各組に代官所を設置した。
由宇組の代官所は岩国藩の出先機関として現在の横町に設置され、派遣された代官一人と手子役二人を置き、近郷11か村1島(海土路、藤生、黒磯、青木、保津、通津、長野、由宇、日積、神代、大畠、柱島)を支配していた。年貢の徴税、勧農、藩からの通達、治安の維持などの役目があった。江戸時代の中ごろには、百戸以上の家が続く街でたいそう賑やかな街だった。明治になって民間の手に移り、現在も門柱だけそこに存在している。
ささえNo.49 2010年5月号
祖生地区の柱松行事は8月15日に祖生中村で、19日に祖生山田で、23日に祖生落合で行われる火祭りのこと。昔、疫病が広がり、農耕用の牛や馬が多く死んだことや自然災害による飢饉などを機に、その慰霊と除災のために始まったといわれている。
高い柱(約20m)の頂上に「ハチ」と呼ばれる笠を置き、思い思いに松明(タイ)を投げ上げて点火し、五穀豊穣や家内安全のための「除災」と神に聖火を捧げる「献灯」、そして、いち早く点火した者には幸運がもたらされるという「年占い」を伴う、夏の火祭りである。
火が入ると、太鼓を打ち鳴らして神霊を迎え、お祈りする。記録によれば神事として始まり、開催日の関係から祖霊迎え、祖霊送りの意味を含む盆行事とも習合している。この柱松行事のおかげで、やがて平穏無事となり、この徳に応えるため、その後も毎年神事を催す習慣となった。
最近では過疎化などで、柱の立て起こしに機械を使用したり、より簡略化された例も多い中、地域の人々の手作業によって古来の習俗を、そのまま継承している周東町祖生地区の柱松行事は大変稀少価値が高いと言える。
この行事は誰によって創案、伝授されたかは不明だが、1734年(享保19年)から276年続いてきたもので、平成元年には国の重要無形民俗文化財に指定された。
ささえNo.50 2010年7月号
黒磯の天叟寺(てんそうじ)には、疱瘡(ほうそう)観音という疱瘡(天然痘)を治してくれる観音様が祭られている。この観音様には、不思議な話がある。
昔、漁師の喜左衛門という人が、海で網を引いていると、60センチばかりの石がかかったが、海に落として帰った。その翌日もその石が別の場所でかかり、また海に捨てて帰った。3度続いた夜、枕元に観音様が立たれ、「網にかかった石は誠に尊い観音だ。どんな難病でも、お願いすれば治してくれる」と言われたため大切に持ち帰りお堂にお祭りしたという。
天叟寺の近くには、昔小さな滝があり、その水で体を拭けば疱瘡がよくなったという言い伝えもある。江戸時代、岩国の城下町に疱瘡が大流行した。疱瘡は、高熱が出て、伝染、流行性が強く、死亡率も高かった。享保17年(1732年)六代藩主吉川経永の時、「疱瘡遠慮定」という法令が出され、患者は城から三里離れた海岸の「疱瘡村」へ隔離された。これは、藩主を守るためのもので、患者は隔離療養の費用として「退飯米」を持って隔離され、親子、兄弟でも接近どころか、文通も許されなかった。
疱瘡は、1850年(嘉永3年)まで大流行し、この間亡くなった人々を埋葬した自然石で作られた墓を疱瘡墓(自然石)という。今でも、藤生町、黒磯町、青木町などの山の谷や、丘に寂しく残って哀れを留めている。地主が僅かに残った墓らしきものを集め供養しているという。受け入れた村の記録は皆無で、無縁墓のみ当時を物語る。
(参考文献:岩国玖珂歴史物語(藤重浩さん提供))
ささえNo.51 2010年9月号
1866年(慶応2年)、幕府による第2次長州征伐が行われました。山口県下では、四方から幕府軍が攻めてきたので、四境戦争とも呼んでいます。
この戦いで、広島方面の境である「芸州口」では、長州の遊撃軍と岩国の民兵団が活躍したと言われています。民兵団とは、農民や町人など、武士以外の階級の人々によって組織された軍隊のことで、「団兵御仕成記」などの歴史資料には、岩国領内の村々から民兵団で活躍した人たちについて記されています。
近年、岩国市中津の民家で「小銃弾薬」と書かれた30cm四方の木製の箱が発見されました。家の人の話によると、この箱は四境戦争の際、弾薬を備蓄するために使われていたということです。箱の両側には穴の跡があり、かつては担ぎ棒を差し入れて運搬していたのではないか、と推測されます。
おりしも、長州藩は馬関戦争の敗北が長じてイギリスと親密になり、兵制を学び軍備を増強していました。また坂本竜馬は長州のために、長崎の商人グラバーから新式小銃を大量に密輸した時期と、ぴたりと重なります。
中津にあった小銃約個には、坂本竜馬が手配した新式小銃の弾薬があったのかもしれない? ! と思うと、龍馬と山口に古の維新ロマンを感じます。
(参考文献:楠木町3丁目山本さんからの情報提供)
ささえNo.52 2010年11月号
厳島合戦で勝利をおさめた毛利元就は永興寺に本陣を置いて周防長門の統一に着手した。山口の大内氏に攻め入ろうとする毛利氏は、まず鞍掛山城主杉隆泰(たかやす)、蓮華山城主椙杜隆康(すぎのもりたかやす)に毛利氏方に従うようすすめた。
鞍掛山城は大内の家臣、杉隆泰の居城で、毛利は以前尼子氏軍攻めの際、ともに相助け戦場で苦楽をともにした武将であり、大内の援軍に救われたことがあるのにその恩義を忘れて大内家に弓を引くとは何事かと大いに腹を立てた。
防備が整わないので、一時しのぎに元就に降伏をよそおった。しかし、毛利軍が周防、長門の国に攻め込んでくることを防ぎ、毛利軍を討とうと山口の大内氏に援軍を鞍掛城に送るよう使いの僧に密書を持たせた。
蓮華山城主、椙杜隆康は主君に忠実な杉氏が毛利に従うことはないと周東町差川に部下を配し、警戒していた。密書を持った僧を捕らえ、毛利に送った。作戦の上手な元就は椙杜隆康の先導で谷津峠から蓮華山に入り、裏面の鞍掛城裏門臼田に至り、11月14日、早朝、正面の谷津原からと両面から不意を突いて攻め込んだ。杉隆泰は勇敢に戦ったが、毛利軍の多勢に守る杉軍の無勢にてかなわず、千三百人余りの将兵が討死した。登山を防ぐために麦わらを敷いて応戦したがそれに火をつけられた。今でも焼米がでるという話もある。
杉父子の墓は祥雲寺にあり、家老の墓と将兵は千人塚として谷津に合葬され、毎年11月14日に慰霊法要が行われている。
また、杉隆泰の二男で亀若丸は家老の柳井若狭守(わかさもり)の娘を嫁にし、柳井源次郎と名のり、その子孫は代々に至るまで玖珂町に居住し、現在は宇部市に居を移しているそうだ。
(参考文献:岩国玖珂歴史物語、ふるさと玖西の歴史と民話)
ささえNo.53 2011年1月号