81の巻…「錦帯橋下近縣盆踊競演大会」
昭和30年前後、世間の人気を博しているものに「錦帯橋下近縣盆踊競演大会」がありました。
県内はもとより広島、四国、島根の隣接した県からも参加があり、岩国で行われる催しもので最大であり、入賞商品もある豪華版でした。
市内でも毎年予選大会が行われ、各地の盆踊りチームが出場をかけて競いました。
花笠、日の丸扇日傘をかざし、歌と音頭にあわせ踊りぬく様は鮮やかで美しくどれも甲乙つけ難いものでした。
昭和31年の第6回の大会では経費に40万円を要し、観衆から10円のむしろ代をとって賄ったそうです。
昭和26年の第一回大会から毎回2万人~6万人の観客で賑わいました。
(参考文献:岩国郷土誌稿、岩国ニュース興風時報)
ささえNo.94 2017年11月号
82の巻…天下御免豊太閤官許田浦相撲
1592年、豊臣秀吉が「文禄の役」で朝鮮出兵した際に風待ちの為、海路の途中、つづ浦(現・通津)に立ち寄り、兵士の志気を高める為に慰労の具として相撲を取らせたことが始まりとされています。
秀吉は出港のとき鉾八幡宮(現・矛八幡宮)に先勝祈願をし、地元の協力への返礼として官許を与えました。
「田浦(でんぼ)」とは本町の柴田家の屋号に由来します。明治までは遠く浦々から舟に旗を立て、力自慢が集まって技を競ったそうです。
現在は通津民俗芸能保存会により保存・継承されています。地元通津小学校には専用の相撲場が常設され、毎年欠かさず行われ、今年で438回という歴史を誇っています。
(参考文献:通津の歴史と伝承、岩国玖珂歴史物語)
ささえNo.95 2018年1月号
83の巻…酒造酒蔵に白蛇の神様が祀られている!?
幕末の文久2年(1862年)の「錦川志」に「今津 吉川藩 米蔵(現 八百新酒造酒蔵)で白蛇二頭をよくみる」との記述があります。白蛇はこの米蔵の米を食べるネズミを食べていたので、白くなったのでは⁉という伝説もあったそうです。
この旧吉川藩米蔵で酒造りをしていた八百新酒造の初代、八百屋新三郎が明治33年(1900年)頃に、守り神として白蛇を敷地内に放ち、祠(ほこら)を建設したと言われています。その祠は今も敷地内に残されており、「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)通称 宇迦神様」といい、守護神として祀られているそうです。
白蛇はアオダイショウが、劣性遺伝によって白化したものと言われていますが、今も昔も私たちにとって大切な「神様」であることは変わらない事実なのかもしれません。
(参考文献:財団法人岩国白蛇保存会編 白蛇をまもって)
ささえNo.96 2018年3月号
84の巻…古の神々が集う離島「柱島」
港から少し離れた小高い丘の上に、神武天皇と五十鈴姫命(いすずひめのみこと)を祭神とし、他に金毘羅、稲荷、天神社などの神々が祀られている「賀茂神社1177年勧請(かんじょう)※」があります。島には賀茂神社をはじめ、多くの神々が祀られており、神様は「柱」と数えるため「柱島」となったと伝えられています。なお、平安時代には加茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)(通称 上賀茂神社)の神領だったという文献が残っています。
上賀茂神社といえば、677年(天武6年)創建ともいわれる京都最古の歴史を持つ神社で、本殿などが国宝、また1994年には世界遺産に登録されています。
※勧請…神仏の分霊を他の場所に移し、まつること
(参考文献:柱島の歴史、日本の世界遺産2)
ささえNo.97 2018年5月号
85の巻…空海が刻んだ岩屋観音
美川町大字根笠字岩屋に安置されている岩屋観音は、延歴23年(804年)、諸国を行脚(あんぎゃ)していた弘法大師(空海)がこの地に立ち寄った際、この岩屋に杖を止め楠の古木に「一刀三礼(いっとうさんれい)の法」で観音像をみずから刻み込んだといいます。
その後、千年余りの長い年月を経て鍾乳の点滴が木像を包み込み、木仏が石仏と変容したといいます。現在木像部分は腐敗してほとんどなくなっており、内部は空洞化してしまっています。
このことが学術上きわめて珍しいということで、昭和9年(1934年)天然記念物の指定を受けました。
(参考文献:岩国・柳井の歴史)
ささえNo.98 2018年7月号
86の巻…東林寺の「秘仏」薬師如来坐像
中世には山口県一の関門といわれ、去来の旅客が多くにぎわったとされる 東林寺※は、明治の大岡越前といわれた玉乃世履(たまのせいり)が撫育方(ぶいくがた)をつとめ、撫育所(代官所)が置かれていた場所として知られています。
その医王山東林寺は臨済宗で、永興寺(ようこうじ)※の末寺。はじめは東照寺といっていました。本尊は「薬師如来坐像」。五十年に一度しか開帳されない秘仏です。
室町時代の作といわれています。
次回の開帳は2027年です。待ち遠しいですね。
※東林寺…美和町
永興寺…横山にあるお寺
(参考文献:わたしたちの岩国、岩国・柳井の歴史)
ささえNo.99 2018年9月号
周東町・用田の標高242メートルの山の頂に、真言宗の「極楽寺(二井寺)」というお寺が建っています。明和3年(1766年)に書かれた「新寺山(※二井寺の初めの呼び方)由来記」に次のようなことが書いてあります。
奈良時代、聖武天皇(724~749年)の頃、この玖珂郡地方に、秦皆足朝臣(はたのみなたりあそん)という大領(長官)がいました。皆足は大変信心深い人で、なんとかしてこの地方に仏教を広めようと、お寺を建てるための聖地を探していました。
そしてある日のこと、二井寺山の麓にたどりつき、一息していたところ、ふとこんこんと水の湧き出る泉を見つけました。馬から下りて手を洗っていると、突然大きな声でいななきながら、一頭の馬が側を走り抜け、山の頂上めがけてかけ上がって行きました。
怪しく思い、後を馬で追って行くと、やがて山頂にたどり着きました。そこは四方が開け、大変眺めのよいところでした。皆足はこここそ探し求めていた聖地だと思い、お寺を建てる決心をしました。お寺はその後、二十四坊(僧侶の住まい)にもなり、聖武天皇から勅願所(天皇の祈願所)と称されました。
このお寺の歴史が古いため、いろいろおもしろい話も伝わっています。たとえば源平合戦の時、源氏が下関の壇ノ浦まで平家を追って行った際、武蔵坊弁慶が二井寺に立ち寄り、馬に食べさせる飼料を借りました。そして借用証書一通がありましたが、永正年間(1504年)、二井寺の火災で消失したという話。
あの有名な弁慶でさえ、借用証書を書かされるのですね!その消失したという「借用証書」をぜひ拝見したかったものです。
(参考文献:岩国の歴史と文化)
ささえNo.100 2018年11月号
かつて、この岩の前まで海が広がっていました(現尾津町188号線沿い)。そんな大昔、宮島の祭神である市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)が立ち寄られ、化粧を直されました。
口紅をつけようとした際、誤って岩に紅がついてしまったことから「紅岩」と呼ばれるようになったということです。現在は荒神様が祀られています。
近世には烏帽子岩、平岩、夫婦岩等が近隣に点在していましたが、陸地を広げるにつれて姿を消しました。
戦時中、戦闘機の滑走路が必要だったため、この紅岩も海側が削られてしまいました。
(参考文献:ふるさと愛宕 愛宕地区社会福祉協議会)
ささえNo.100 2018年11月号
土地によって同じものでも呼び名が異なるものがあります。料理の名前もまさにそうです。一般に「にごみ」或いは「にこみ」といわれる料理も当地ではどういう訳か「おおひら」と呼んでいます。
さて、その語源については諸説ありますが、「おおひら(大平)」というふた付きの椀に、この料理を盛っていたことが有力な説かと思うのですが、その他にこんな説もあるのはご存じでしょうか?
昔は「煮しめ」を盛るふた付きの平椀のことを御所ことば(女房ことば)で「おひら」と呼んでいたようです。例えば「おじや(雑炊)」「おから(豆腐の滓)」「おみおつけ(みそ汁)」なども同様、御所ことばなのです。このように私たちが何気なく使っている料理に関する言葉の中にも、古語や御所ことばにその原型が求められるものがあり、しかもそれらの言葉がどういう歴史的経路で定着したのか大変興味深いものです。
(参考文献:ふるさと歴史の散歩 山口県玖珂郡和木町)
ささえNo.101 2019年1月号
その昔、周防国山代波野村(本郷村波野村)に中内馬之允(なかうちうまのすけ)という者がいた。農業・養蚕で暮らしていたが、永禄年間(1558~1570年)、芸州吉田に往復し、紙屋に泊った際、そこの主人に製紙法の概略を教わった。それは、楮の皮を剥ぎとってよく煮、うち砕き、船に入れ、白粳米で作った糊をその中に混ぜ・漉いて板に張って乾かす、というものであった。
家に帰って真楮を探したが容易には見つからず、根笠村に真楮があるという情報を聞き、その真楮を波野の桜畑に植えたところ、土地がよく合って繫茂し、しだいに広まった。
こうして紙漉きを山代へもたらし、耕地に恵まれない山代の住民に生活の手段を与えた。永禄2年に小社を建立し、天日鷲命・津昨見命を祀って村民の繁栄を祈願した。楮はよく育つようになり、山代紙が世に知られるようになった。慶長9年(1604年)、村民は中内馬之允の霊もあわせて祀り、「楮祖(ちょそ)神社」と称して崇敬したといいます。
(参考文献:岩国・柳井の歴史)
ささえNo.102 2019年3月号