岩国のへぇ~ 91~100の巻


91の巻…岩国方言の不思議

 ふだん何気なく使っている岩国の方言の歴史を知っていますか?驚くことに岩国の方言(山口県の方言)についての資料は全国的にも少ないようです。少ない理由として、いくつかの原因が挙げられます。奈良時代から主要な交通要路であり、人々の往来が多いこと。瀬戸内海は海上の道として栄え、江戸時代に他国との交流があり、江戸語(今現在の標準語)との違和感が少なく差し障りがあまりなかったからだそうです。しかしながら、九州方言との近さや山陰、四国南部との近さもあり、生活の中で独自の方言へと変化していったようです。方言の中に、岩国の歴史をほんの少し覗いたような気分ですね。方言を聞くと何だか温もりを感じませんか?これからも大切にしたいですね。

 皆さんも今一度、何気なく使っている方言に親しみを感じ、離れて暮らしている大切な人へ電話や一家団欒の時などに方言を話に花を咲かせてみてはいかがでしょうか?

(参考文献:論集「山口県方言の研究」)

ささえNo.103 2019年5月号

2の巻…子坊主と相撲取り

 竹安の杉ガ峠にまつわる相撲談義の伝説があります。昔々、土生村に河内郷一の力自慢の相撲取りがおりました。何かにつけては力自慢や自慢話をしていたので、村人からは批判されていました。

 ある日、相撲取りが杉ガ峠を通りがかった際、「私と勝負をしませんか?」と声をかけた小坊主がおりました。相撲取りは見知らぬ小坊主を見下すような目付きでじろじろ見て「よし分かった、相手をしてやろう。」と挑戦を受けて立つことにしました。数日後、話を聞きつけた大勢の村人が集まる中、相撲対決が始まりました。一目見ただけで対照的な体つきに「これが勝負になろうか?」と村人たちの心配はつのるばかり。しかし行司の軍配があがり、立ち上がるや否や、相撲取りは一瞬のうちに小坊主に軽く投げ飛ばされ勝負がつきました。

 そのうえ小坊主は「この口でよくも自慢をしよったのか。」と激しい口調で罵り、相撲取りの口を引き裂き、殺してしまいました。

 小坊主は、日頃自慢話ばかりしていた相撲取りの自尊心を封じるために現れたお地蔵さんでした。

 相撲取りを日頃から目の敵にしていたものの、憎しみが同情心となって現れた村人たちは、お地蔵さんの鎮魂のため、陰陽子宝明神の隣に地蔵尊を建て、その霊を慰めたということです。

(参考文献:玖珂郡志、ふるさと河内 社寺関連 史蹟・口碑・伝説編)

ささえNo.104 2019年7月号

3の巻…伊陸馬(いかちうま)

 伊陸馬という言葉を聞いたことがありますか?

周東地方で、「あいつは伊陸馬じゃけぇのう」や、「今日は伊陸馬じゃ」のような使われ方をよくしています。

 なぜこの言葉が生まれたのかというと、昔から「伊陸米」と呼ばれて、この地方は米の産地として有名でした。お米などを馬車で運んでいた頃、岩国への道のりは下り坂で楽だったのですが、帰り道は上り坂で、さらに問屋からの荷物を積んだ馬は大変苦労して運んでいました。伊陸馬は足が速かったので、気の早い人のことや、最初は元気がよくて張り切って仕事をしていてもしまいにはへばってしまう人のことを「伊陸馬のようだ」と言うようです。

 当時の生活に不可欠な伊陸馬だからこそ生まれた言葉で、時の流れと共に馬車は見られなくなりましたが、言葉だけは残っているようです。

(参考文献:周東歴史物語<歴史物語シリーズ②>)

ささえNo.105 2019年9月号

4の巻…軒先に俵を吊るす?給領庄屋の知恵

 幕末の頃、藩の規定によると、給領地のうち一村単位で支給されたころは「一郷一村知行」といい、その村全てを給領地主の支配下におかれました。

 これに対し、一村の中を複数の給領主に分けられる場合には「入会知行」と称しました。

 周東町域には「一郷一村知行」はなかったのですが、入会知行でも一給ごとに給領主が、庄屋を任命しこれを給領庄屋と呼んでいました。

 その中でも、久原村において300石、長野村200石の地を知行した給領庄屋として勤功により役中「木村」の苗字を許された、木村家の屋敷は奥長野の山腹にあり、全体的に素朴で創建当時の面影を残してます。

 木村家の給領庄屋としての面影を垣間見られる物に屋敷の玄関入り口に天井から、俵が吊るされており、かつては備荒貯穀として籾が入れてあったと思われ、その容量からして食料としてではなく凶作時の種籾用として、保存を心がけたものと考えられており通風のよい軒先に吊るす仕法は、県内でも例を見ません。

(参考文献:周東歴史物語<歴史物語シリーズ②>)

ささえNo.106 2019年11月号

5の巻…南条踊の由来

 南条踊は、岩国の旧藩主吉川広家公がこの地に所領を移した後、代々吉川家にお祝い事があるときに踊っていました。人数は百人ほどで組織されていて、後世に至っては、毎年夏の夜には必ず、城下の所々で踊っていました。

 この踊りの由来については、二説に分かれているようです。

 一つ目は、白州羽衣石(はくしゅううえし)域主、南条元続を策略にかける為に吉川元春が南条地方の踊りを利用したのが始まりだという説です。

 二つ目は、単に元春の家臣が、南条の人質から習い覚えたという説です。

 いずれにしても、吉川家勝軍の吉兆を示すものとして伝えられ、南条踊保存会は、いまもその由緒ある郷土芸術を後世に伝えたいとの信念を持ち取組んでいらっしゃいます。

(参考文献:岩国郷土誌稿 全)

ささえNo.107 2020年1月号

6の巻…夢の土生(はぶ)温泉

 昔、南河内と玖珂町の境界にある高山で二度にわたり大崩壊があり、噴火したとも言い伝えられ、当地域には温泉鉱脈が走っているという話がありました。

 40年前、土生地区のある男性が自宅裏から出る湧水が、冬でも温かく凍らないのを不思議に思い、必ず温泉が出ると長年の夢であった温泉を掘り当てることに成功しました。

 この温泉は、岩国市役所南河内出張所のすぐ裏にあり、水温17度、1分間に130ℓの豊富な温泉水を噴出するといいます。

 山口県衛生公害研究センターの調査では「単純弱放射能令鉱泉」であるとのお墨付きで、昭和63年10月に「土生温泉」として認可を受けています。

 この地域の小字を「ゆまち」といい、地名の由来からしても頷けるお話です。

 現在は、「土生温泉」としての営業はありませんが、お年寄りや病気の人々のために有効に活用され、地域繁栄の原動力になればと、夢の実現のため成就を願われたそうです。

(参考文献:続ふるさと河内)

ささえNo.108 2020年3月号

7の巻…多田の瓦師が考案した日本唯一の瓦~両袖瓦~

 岩国の多田では中世より瓦が焼かれ、近在の需要をまかなっていました。

 日本では古くより、瓦屋根は平瓦と丸瓦で葺かれてきましたが、延宝2年(1674年)に西村半兵衛が丸瓦と平瓦を一体化して桟瓦を発明したことで、経費が安く工事が簡単となり、全国的に瓦が普及したといわれています。

 岩国でも本葺きの簡素化を考えた瓦師が、丸瓦+平瓦+丸瓦を一体化して「両袖瓦」を案出し、平瓦と両袖瓦で屋根を葺く方法を発明したのです。両袖瓦は桟瓦と比べて不便でしたが、本瓦に準ずる一種の格式を持ったものとみなされ、根強い需要がありました。しかし、廃藩と共に、両袖瓦は急激にすたれ、江戸末期には今の様式の「片袖瓦」へと変わったと云われています。

 両袖瓦は、国の重要文化財の「旧目加田家住宅」にもつかわれており、岩国城下町独特の形式を現在も見ることができます。

(参考文献:岩国・柳井の歴史)

ささえNo.109 2020年5月号

8の巻…二鹿の伝説

 平安時代、京都の比叡山に二つの頭を持った凶暴な鹿がおり、京都の町に現れては、悪業の限りを尽くし、人々を苦しめていました。

 そこで、当時の朱雀天皇と摂政の藤原忠平は、北面の武士・梅津中将清景にこの悪い二頭鹿を征伐するよう命じました。それを知った鹿は西へ西へと逃げ出し、梅津中将清景も休むことなく追い込みました。四方山に囲まれた、周防の国、玖珂盆地に隠れ住んでいた鹿は、ついにその姿を「明見谷」で見つけられ、「相ノ谷」で矢を放たれました。その矢は胸部に突き刺さり、深い痛手を負い、真っ逆さまに落ちてしまいました。二頭鹿は、川の流れを血潮で赤く染めながらも、向かいの山「鹿田の森」に辿り着きましたが、とうとう絶命しました。

 しかし梅津中将清景も、追撃の果てに精根尽き、この地に没せられました。この地にある河内神社(二鹿神社)中将と鹿を祭ってあるそうです。

 この伝説の舞台となった場所をいつからか「二鹿」と呼ぶようになったということです。

(参考文献:続ふるさと河内)

ささえNo.110 2020年7月号

9の巻…全国で唯一の法「疱瘡遠慮定(ほうそうえんりょさだめ)」

 疱瘡とは天然痘のことで、伝染、流行性が強く、致死率も高い病気です。昔は人々から恐れられていた病気の一つで、近代医学がまだ発達していなかった時代には、疱瘡は悪神のしわざによるものと一般的には考えられ、流行すると退散の呪いが全国で行われていました。

 疱瘡の流行に悩まされた岩国藩では、初代藩主以来、疱瘡に関する対策を文章化し、これを実施に移したものが「疱瘡遠慮定」です。

 岩国藩はこの病気に対し全国で唯一禁令を強めて実施に移しています。この禁令の中心となるものは発病者の自宅治療は許されず、完全に隔離することでした。藩としてこの法令を強化するにあたって患者の家に対して、療養の費用を補助するなど支援もしていたようです。疱瘡対策に真剣に取り組んだ岩国藩は、徹底した隔離政策と退飯米の生活支援により、藩主を守り、庶民も守ったことは注目に値しました。

(参考文献:岩国玖珂歴史物語)

ささえNo.111 2020年9月号

100の巻…かつて海だった!尾津干拓にある神社

 竜ケ鼻(たつがはな)地蔵堂は、牛野谷の竜ケ鼻にあり、霊感あらたかな地蔵として地域で守られてきました。

 この竜ケ鼻は、昔から景色がよく、近くに中津に対し、遠くには錦見の江に臨み風景がとても良いところです。この辺りは江戸時代後期までは海だったそうです。

 天明2年(1782年)3月、木村俗名平六という者が諸国の霊場をめぐり、この地が良いと占い、地蔵堂を建立し、地蔵信仰の道を開いたといわれています。

 子どもの平安とともに家の開運と幸福を祈る人々がお参りをしています。

 この程、「竜ケ鼻」に由来する「案内板・竜ケ鼻界隈の今昔」が岩国市門前町2丁目の「門前大歳神社境内」に愛宕地区社会福祉協議会によって設置されました。

 愛宕地区社会福祉協議会は、かつてより地域内に現存している尾津開拓の名残や地域で守られている神社やお堂などの文化財等の発展に努め、地域の歴史の移り変わりを絵や写真で地域住民に伝えています。

(参考文献:ふるさとの思い出写真集・岩国)

ささえNo.112 2020年11月号