岩国のへぇ~ 1の巻~10の巻

1の巻…大明小路

 錦帯橋から続く大明小路は、長さ429メートル、岩国城下町の大手通りといったところ。この通り「大明小路」と勘違いしている人も多いのでは。昔は、武家屋敷が立ち並び代表的な侍町でした。寛永(1624年)以前、今の三原屋のある場所に諦名院(だいみょういん)という寺があったがこの通りの名前の由来といいます。その後いろいろな著名人、医者が多く住み、かご網の名人や絵師がいたこともあったそうです。

2の巻…岩国人はとっても本が好き

 岩国の図書館の利用率が全国でもトップクラスということを知っていますか?

 人口1人当たりが、1年間に借りる本の全国平均は4.5冊。それに対して岩国はなんと11.3冊!図書館に登録している人は、岩国の人口の44.8%。人口の半分の人が図書カードを持っているということです。お隣の広島市は、人口1人当たりが借りる本は、3.6冊、登録率は24.6%。岡山市は、人口1人あたりが借りる本は6.3冊、登録率は13.1%。その違いがよくわかります。岩国人は、読書好きということなんでしょうね。

3の巻…チャップリンの秘書は岩国人

 喜劇王チャップリン(1889~1977)は、みなさんご存知ですよね。でもチャップリンの秘書が日本人、それも岩国出身だったことは知られていません。

 この方は、米森義人さん。川下村車(今の車町)に生まれ、14歳で渡米。チャップリンが昭和11年3月6日に2度目の来日をした時、一緒に日本に帰国しました。

 チャップリンは、とても親日家で、光森さんの前でも肉親のように慕った高野虎市さんという日本人秘書がいました。

4の巻…岩国駅と西岩国駅の数奇な運命

 岩国駅は、時代の波に翻弄され名前が何度か変わりました。昭和4年までは「岩国駅」でしたが、その後、徳山まで線路を延ばすために、当時の市街地である錦見に作られた駅を「岩国駅(現西岩国駅)とし、それまでの「岩国駅」は「麻里布駅」と改称されました。

 昭和19年柳井経由の線路ができると、「麻里布駅」が「岩国駅」に、「岩国駅」が「西岩国駅」にまた改称されました。

 永久保存されることになった西岩国駅舎は、洋風木造建築で改行当時のままの風情のあるたたずまい。今は「NPO法人西岩国・駅と広域まちづくりの会」に管理を委託されています。

5の巻…庶民の娯楽だった「数学の」

スペシャリスト

 江戸時代末期、1828年に岩国に生まれた「西田明則」という人は、和算(昔の日本での数学の呼び方)に非常に詳しかったそうです。西田家は代々岩国藩の測量を担当していて、彼は和算を仕事に大いに役立てていました。

 そして、44歳(明治4年、1871年)の時、明治維新の時代に活躍した山県有朋に招かれ、建築家として靖国神社や砲台を作るため東京湾に作った“海堡”の建設に貢献し、明治39年(1906年)78歳で亡くなりました。お墓は、建設中だった“海堡”を望むことができる神奈川県横須賀市にあります。また、記念碑は衣笠公園に立てられています。

6の巻…マリリン・モンローが

岩国にきた!?

 あの有名なマリリン・モンローが、岩国の地を踏んだことがあるんです。1954年(昭和29年)2月1日、マリリン・モンローは野球選手として有名なジョー・ディマジオと新婚旅行で日本に訪れました。

 そして、2月11日午前9時10分、岩国の米軍基地に飛行機で降り立ったのです。夫妻は、すぐ自動車で宮島の一茶苑へ向かいましたが、2度岩国の地を踏んだということになります。

 夫妻は、25日まで日本に滞在しましたが、同年11月には離婚してしまいました。わずか9ヶ月の結婚生活の中で、25日間も過ごした日本の思い出は、マリリンにとってどのようなものだったのでしょうか?

7の巻…錦川洪水で

山元動物園芸団流出!?

 山元動物園芸団は、昭和5年8月11日から錦帯橋下の川原で興行を始めましたが12日から大雨になり、13日朝5時頃河原の掛小屋は流出しました。ライオン、大虎他60~70匹の動物は濁流にさらわれ、ライオンの檻は、川下沖で発見されました。

 8月17日、興行主は災害の川原で天幕の三張りを立てて祭壇を造り、仏式により葬儀を行いました。岩国消防団、岩国青年団、その他有志の花輪十数台、弔電多数あり、黒山の参列者であったそうです。

 8月18日、山元動物園芸団は再度この川原で動物興行をするため、動物と道具を求め奔走し、川原に掛小屋を建て始めたそうです。

8の巻…錦帯橋近くの有名な劇場「錦座」

 岩国は芸術を好む土地柄のようで、昔は10以上の劇場がありました。その中でも最も古く有名なものが「錦座」です。明治33年に開業し、大正12年に一度火災で焼失しましたが、翌年には再建に着手し、現在の椎尾神社近くのスーパーの場所に建てられました。

 花道があり、約200坪もある大変立派な建物で、現在も残っていたら、岩国を代表する建築物になっていたかもしれません。ちなみに入場料は、昭和13年の「東京歌舞伎」で1等席が1円でした。時代を感じますね。

 その後「錦座」は、「錦帯劇場」「錦劇(きんげき)」と名前を変え、最後は映画館になりました。

9の巻…熱きこころざしの士 東沢瀉

 東沢瀉(ひがし たくしゃ)は、天保3年(1832年)錦見沙原(今の岩国3丁目)に、武士の子として生まれました。22歳の時京都で「陽明学」を学びました。陽明学は、学んだ事を行動に移そうという学問です。

 沢瀉は、倒幕のための「必死組」を作り、藩へ直訴しました。その問いのスローガンは、「門閥なくして、人材を登用しろ!先例、旧格(昔からの決まり)を使うな!」という、今でも通用するものでした。これに驚いた藩の重臣は、願いを聞き入れましたが、沢瀉は柱島に流罪になりました。

 明治2年、2年間の刑を終えた後、保津村に住み「沢瀉塾」を開きました。武士も庶民も分け隔てなく自由で、1人1人の個性を伸ばし、知識を身につける塾は人気で、たくさんの人がやって来ました。

 明治24年2月20日、60年の生涯を閉じました。

 保津町には記念館があります。

10の巻…そろばん橋って知ってる?

 吉川広正が城下町の町割りをした時、幾度も架橋を実施させましたが、たちまち洪水で流失しました。そこで、吉川広嘉があらゆる技術を駆使して苦心のすえ、流れない橋の工夫を凝らして1673年に「錦帯橋」を創建しました。「錦帯橋」の呼び名は、1678年に広嘉が亡くなった後30年ばかりたってついた呼称です。それまでは「橋」、「大橋」と言われていましたが、その姿から「大橋」では物足りなくなり、凌雲橋・五竜橋・帯雲橋・青海橋・竜雲橋・凸凹橋をも呼ばれていました。

 橋は、上流から眺めてもよし、下流からながめてもよし、お城山から眺めても、橋の上に立って眺めてもよし。特に橋の裏側を下から眺めると、あたかもそろばんの珠に似ていることから、「十露盤(そろばん)橋」をいわれました。この「そろばん橋」の呼称は庶民的で、今日に至るまで愛称とされています。

岩国のへぇ~

  エール君とミニサポちゃん
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